娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

人と向き合う仕事と暴力

 私が指定管理者の対応に疑問を覚える背景について,記しておきます。

 娘には,福祉の現場で働く友人が多数いるようで,そうした福祉の現場では,利用者による職員への殴る・蹴るは珍しいことではないという話をよく耳にすると言います。教育の世界でも同様なことが起きているという報道を,多くないにしても耳にすることがあります。社会的に弱者とされる人たちが,弱者をサポートする人たちに暴力を振るうことが起きているということです。福祉や教育の現場はもともと人と人が向き合う場所です。暴力があってはいけない場所ですし,暴力を警戒しなければならないような場所であってはなりません。しかし現実には,「弱者が暴力を振るう」場面が生まれています。

 人と人が向き合う現場では,暴力を認めたくない人が登場します。娘が警察に被害届を提出したことを非難したような人たちです。暴力が認められない時,暴力によって重い傷を負わされた者はどうなるのでしょう。加害弱者が消えることで,被害者が取り残されることも考えるべきだと考えます。

 また,人と人が向き合う現場で,暴力に触れる機会が多くなると,それだけ暴力に対する鈍感さを増幅させる,暴力に対して「寛容」な判断・言動をしがちな人が増えると考えます。「しようがない」とか「よくあること」で済ます空気が助長されていると私は推測しています。

 児童館の指定管理者は社会福祉法人であり,事件の年の4月から就任した児童館館長は,同じ法人の他の施設で仕事に就いていたようです。事件後,頭部外傷にも関わらず救急車が呼ばれることもなく,娘は1時間半も経ってから館長が運転する児童館の車で病院に運ばれます。病院2カ所を回っても碌な診断は出されず,アパートまで送られ,翌日の再診察で即入院を告げられるという杜撰な対応をされました。このアパートに送られる時に,館長は車を運転しながら娘に対し,自分が福祉の現場でいかに実績のある人間であるかという話を続け,娘は「なぜこんな時にそんな自慢話をするのだろう」と疑問を覚えたといいます。

 私はそこに,福祉の現場で暴力に鈍感になった人間の,目の前で痛みに苦しむ人間に対する無神経な言動を想像します。娘に対する車中での言動の裏には,人生経験が少ない娘に対し,「自分に任せておけば悪いようにはしないから」「これからのことは私にまかせなさい」というような誇示や威圧も含まれていたのかもしれません。

 そして,このことをさらに深めて考えると,事件現場に救急車を呼ばなかったことも,そうした暴力に対する鈍感さからくるものではないかと考えるのです。明確な暴力行為であるにも関わらず警察に通報しなかったのも,暴力行為をした少年を保護・指導する方向に導くこともなく放逐してしまったことも,暴力に対する鈍感さからくるものと考えるのです。暴力を振るった側にとってはありがたいことでしょうが,暴力を振るわれた側にとってはとても受入れられないものであることを改めて強調しておきたいと思います。

 もっとも,それ以上に「事態を大ごとにしたくない」という社会に対する責任問題への配慮の判断が大半を占めていたはずです。館長の暴力に対する寛容な判断は,指定管理者の組織としても受入れやすい行動だったはずです。現場責任者の「事を大きくしたくない」という利己的な判断は,組織としてもそうでなければ困る考え方でもあったはずです。組織としては指定管理者として施設運営の受託を維持したいはずです。大ごとになると施設運営を疑問視されることにもなるわけで,判断の理由としてはこちらが大きいはずです。こうした私の考えを,指定管理者側は当然否定されるでしょう。しかし,これまで私たちが受けた扱いは,そうした推測につながる行動・言動だったということです。

 彼らがこれまで使ってきた「誠意ある」という言葉の本質は,その程度のものだとしか思えないし,そのベースの部分に暴力に対する鈍感や寛容を感じてならないのです。