娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市児童館で小2男児が職員を後ろからバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件以降のあれこれを記していきます。ブログ開設趣旨を,開設日2018年10月3日に記載しています。私は,久保田昌加(仮名)

事件と事故にこだわる理由

 

なぜ事故にしておきたいのか

 

 「事件と事故」に関する話を続けます。神戸市の「事件と事故」に関する認識について整理しておきます。まず参考としたのは,12月19日の記者会見の補足資料です。児童相談所への通告に関して「通告は警察が行ったものなので不明。被害職員の親族が警察に届けを出されたのが6月27日であったためその後と思われる」とあります。この記載は、いくつか間違いを含んでいますが,ここでは加害少年が少年法による通告を受けた,触法性が確認されたことを神戸市が承知していることを記しておきます。

 2018年5月に被害者から神戸市長宛に提出した質問状の中で,「事件の持つ触法性について神戸市が意識されたのはいつの時点か」という質問を入れました。回答では「報告を受けた時点から触法性があると認識しておりました」とあります。この「報告」は質問から考えると,警察の調査が始まった時を指すようです。神戸市担当は,被害届提出前の6月5日に現場を確認し,そのことは市会常任委員会でも答弁していますが,その時点で被害者と加害者の存在に気付いていなかったことになるのですが。この時点で触法性を認識していない,「事故」としてしか意識していない,「事件」としての認識はなかったことを意味します。被害者と加害者が存在しない状態での検証とはなんだったのでしょう?被害者と加害者が存在するのに,なぜそうなるのでしょう?

 他の質問に対する回答の中で「小学2年生の関わった事案であり、慎重に対応しなければならない問題」と記しています。こうした書面でも,議会の答弁でも「慎重に対応」と使いたがりますが,被害者から見ると煙幕のような使い方に見えます。少年法の対象年齢であることを理由に,対応も含めてできるだけ具体的説明は避ける,事件性=触法性を表面化させない方向で事案の収束を図ろうとする言葉の使い方の一つです。「小学2年生がバットで人を殴った」という社会に対する衝撃を避けることをベースに事態の収拾を図ろうとしています。それが指定管理者や市の考え方だったはずで,それで収束できるとも考えたはずです。少なくとも被害者が警察に被害届が出すまでは。しかし,それは「触法性を認識している」人たちの行動としてはどうなのか?

 その後,被害者から被害届が提出されたことにより,警察による調査が進むことになります。それでも当初の姿勢を変えることはありませんでした。指定管理者との間で,被害届前に考えていた事態収束のシナリオを変えせん。そして,「触法性があると認識」していた児童が,警察から児童相談所への通告という法的措置が取られることになります。ここに至って,加害者と被害者の姿が鮮明にされましたが,それでも彼らは「事件」ではなく「事故」としたままでした。市が指定管理者と組み立てたシナリオにそこまでこだわる理由を是非聞いてみたいものです。

 

 

「事故」という不利益

 

 私がなぜ「事件」と「事故」にこだわるのか,について記しておきます。
 被害者から被害届を出したことで,事件を起こした児童が明確にされ,今後は児童保護者などを相手とする損害賠償を求めていくことも考えなければならなくなるでしょう。仮に損害賠償が確定したも,賠償行為が確実に履行されるとは限りません。犯罪の加害者に支払能力が無いため,賠償を得られないという話はよく聞く話です。しかし,自らの身体に危害を加えた人間が明確にされていることは,そこから先,恨みを抱えてでも生きていく目標が残されます。それが「事件の被害者」であることの矜持です。「事故」の場合,「過失」が認められれば損害賠償の話はできますし,被害者の矜持は残されます。しかし,加害者も過失もなければ,自らを恨むしかなくなります。

 もし指定管理者や神戸市が当初考えていたような形で,彼らのシナリオに合わせて被害者が被害届を出すこともなく,「事故」を受け入れていればどうなっていたのでしょうか。当面は労災保険による補償などもありますが,診療した全てが認められるとは限りません。認められない部分は被害者本人が負担しなければなりません。ここまでは事件・事故のどちらも同じです。しかし,症状固定によって労災保険が終了すれば,その後の医療費は一切被害者個人が負担しなければなりません。保険が適用されるとはいえ,被害者だけがその負担を被ることに変わりはないのです。事件によって増えた診療機会の費用は全て被害者だけが負担するということになります。補償もなく,自費だけが増えていくということです。

 「事故」を受け入れる,神戸市や指定管理者が書いたシナリオに従うということは,加害者を消されたうえに,医療費は増額になるということで,理不尽極まりない話になるのです。指定管理者や神戸市は,被害者がこうした過酷な状態に置かれることをどの程度想像していたのでしょう。自らの責任が問われることのない方向性しか指向していないので,そのツケが被害者にどう覆い被さっていくかは何も考えない,それで平然としているだけだと考えています。だから彼らを「人でなし」と呼びたくなるのです。被害者だけが重荷を負わされている状況にあることを見逃すわけにはいかないのです。

 これまで記した関係者,指定管理者と神戸市の姿勢は先に記述したとおりですし,加害児童の保護者には今もって主体的な謝罪行動がみられません。こうした人たちの中にあって,「事故」を受け入れることは,被害者だけが理不尽な状況に置かれること意味します。彼らには,少なくとも生涯にわたって謝罪の意思を維持する義務が最低限あると考えます。だからこそ,これは「事故」ではなく「事件」でなければならないと私は考えるのです。