娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

加害者が少年であることとは

 加害少年は事件時に小2でした。少年法が定める14歳未満なので「触法少年」となり,警察が触法行為を確認して児童相談所に通告しました。児童相談所で定期的な指導を受けていることと思います。それでも彼は,それ以外に関しては事件前と変わらぬ家庭生活を送っているのでしょう。大人であれば,逮捕・勾留され,罪に応じた罰を与えられ,隔離された生活の中で更生や再犯抑止を身に付けていくことになりますが,少年の場合はそうではないそうです。健全育成を前提とした少年法によって守られた生活ということでしょう。

 しかし,被害者側からすれば,加害者が事件前と変わらぬ日常の中にあることに,釈然としないものを覚える部分もあります。少年法の理念を理解できないわけではありません。少年に更生の猶予を与え,社会として再犯防止を模索する考え方を否定はできないと思ってはいます。

 しかし,非行少年の全てが更生を果たせるわけではないということも事実としてあると考えます。著名な殺人事件を犯した元少年が,被害者家族の望まない行動をしたという報道もありました。被害を受けた娘からすれば,何の躊躇もなくバットで人の頭を殴るという行為そのものに,更生の可能性を感じられないとする気持ちも強いようです。大きな事件があるたびに少年法の是非が語られるようですが,法の持つ理念と現実の非行との間について,被害者の存在から議論される部分も必要だと考えます。

 この問題に関連して,今の私が一つだけ述べておきたいこと。娘は事件で大変な荷物を背負わされました。この重い荷物を背負ってこれから先の人生を生きていかなければなりません。しかし,加害少年は何も背負わなくてもいいのです。そのことに釈然としない思いが残ります。10歳未満である児童にも未来があることは否定しませんが,20代後半に入った娘にも未来はあるのです。何かそこに片手落ちなものを感じるのです。

 このことは,少年が関連すると被害者の存在が薄められるのではないかという疑問にもつながります。非行少年の情報が限定されるのに合わせて,事件そのものが消されていくように思われるのです。大人の事件であれば些細なところまで報じられることがあるのに,加害者が少年ということが明らかになった時から報道自体も減るように感じられます。

 そしてこれに関連して強調しておきたいのは,当事者の事件への向き合い方です。事件当事者が「少年」であることを理由(言い訳)に,被害者に対していい加減な対応をしているということです。これまで何度も記してきたように,加害少年の家族からは被害者に対する主体的謝罪行動は全くありません。指定管理者は,少年であるがゆえに事件を軽微な処理で済ます方向を選択し,被害者をないがしろにする行動を取りました。児童館設置者である神戸市は,「小学2年生の関わった事案」なので「非常に配慮を要する問題」「慎重に対応しなければならない問題」と言いつつ,その言葉で被害者からの疑問を覆い隠そうとしてきましたし,それは今も変わっていません。

 加害少年そのものを語ることは少年法に触れることなので,確かに「慎重」に「配慮」しなければならないと考えます。この事件が,少年の資質のみを語って済むのであれば,議論も控えなければならないところがあるでしょう。しかし,私たちがこれまで指定管理者や神戸市に問うてきたのは,少年の周辺や事件への対応です。それは,同じようなことが繰り返されないための準備でもあるはずです。しかし,そうした「真実」に関することに向き合わない,隠されたという思いが残るのです。

 少年を,未来の存在として社会が大事にしなければならない,とする考え方もわからないわけではありません。しかしそれはあくまで原則論のはずです。どこのエリアでもそこからはみ出すものがあります。「はみ出したらどうするの?」という話をしたいのですが,原則論に属している方が楽ですし,世間的にもその方が受け止めやすいのでそちらに流れ,なかなか議論の場に進めてはもらえません。そこで歯ぎしりをしているのが,私の現在だと考えています。