娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市児童館で小2男児が職員を後ろからバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件以降のあれこれを記していきます。ブログ開設趣旨を,開設日2018年10月3日に記載しています。私は,久保田昌加(仮名)

被害者を避ける神戸市

 娘は事件翌日に郷里へ帰り,入院を含む治療に入りました。頭部外傷という後遺症の危険が高い状況におかれ,事件直後から片耳がほとんど聴こえなくなっている娘の状態を考えると,この負傷は決して小さいものではないと思っていました。しかし,指定管理者からは一度電話連絡があっただけで,その後は労災保険に係る手続きのやり取りしかありませんでしたし,加害児童保護者や施設設置者である神戸市からは何も連絡がありませんでした。

 郷里での初期治療を終えて神戸市に戻り,警察に被害届を提出しました。神戸市から何も連絡ないことに疑問を感じた私は,7月半ば,こども青少年課に電話を入れ,電話に出た係長に被害者がおかれている厳しい状況を伝えました。また8月末に,被害者の状況がわかる資料をその係長宛に送りましたが,何の返信もありませんでした。被害者から神戸市に接触を図ったのは,その2回でした。

 電話の係長からは「基本的には指定管理者が対応するが,市も動向は注視したい」という返答がありました。3月市会常任委員会でも「一義的にはまずは指定管理者が対応することになる」と部長が答弁しています。5月に提出した質問への回答にも「指定管理者が対応」とする文言は散見しました。それ自体を疑問視するつもりはありません。

 しかし,指定管理者ばかりではなく,施設設置者と被害者の間にも溝があることを感じていた私には,双方の関係が正常ではないとの思いがありました。それもあって今年5月に質問状を出した際に,「事件に対する認識と被害者への対応について」として触れていますので,一部を紹介します。

 

[被害者からの質問(抜粋)・要約]
 「指定管理者が対応する」という考え方は,指定管理者が当事者として誠意ある対応をした場合には有効と考えますが,指定管理者と被害者の意思疎通は十分ではありません。指定管理者と被害者の持つ事件情報の違い,指定管理者の被害者支援に対する不誠実さからくるものです。指定管理者の対応が十分ではない場合,被害者にはそれを解消する方法があるとは思えません。神戸市は,そのような状況を承知のうえで被害者との接触を拒んできたのでしょうか。どのようなお考えで被害者を拒み続けたのか,その理由について教えていただきたい。

[神戸市の回答(抜粋)・全文]
 神戸市では、児童館は指定管理者制度で運営しており、市としては、指定管理者から事実確認を行い、指導する立場にあります。このため、本件については、指定管理者とその被用者の労使関係の中で対応していく問題であり、市は、指定管理者の被用者と直接お会いする立場にないことをご理解いただきますようお願いいたします。

 

 「労使関係の中で対応していく問題」というところまでは理解できます。しかし「市は、指定管理者の被用者と直接お会いする立場にない」とまで書かれると,いささか疑問を感じます。3月市会質疑での答弁のうろたえぶりで考えると、こうした考え方が用意されたのはそれ以降だと考えていますし(ブログ10/27『コトの重さをいつ意識した?』),施設設置者としての在り方が指定管理者制度に制約を受けることは理解できないところですが,いずれにしても私には,ここの部分は後付けの理由としか思えません。

 施設運営の制度の問題ではなく,施設設置者の姿勢として「如何なものか」なのです。姿勢の問題を制度の問題にすり替えているようにも見えます。この事件を最初から振り返ると,神戸市は施設設置者として被害者に一度も接触しないままに来ています。早い時点での接触・あいさつ・お見舞い等何らかの言葉をかける機会はあったはずです。まずそうした行動が必要だったと考えるのです。ある意味地味かもしれませんが,人としての接し方の話です。そうした行動の中で、被害者も含む事態の全体像に近付くことができたのではないかと考えます。それはこれまで繰り返してきたように,事件当初に限らず,被害者から被害者から被害届が出されて状況が変化した時点でも遅くないものだったと思います。いずれにしても,そうした行動を取れなかったのは判断ミス,不作為としか言いようがなく,単純に済む話が複雑で面倒な方向に動いたわけで,一言で済ませれば「愚か」です。

 その後12月の報道で事件は世間に知られることとなりましたが,その後はそれまでの行動を隠すため,被害者から距離を置くことと,その正当性に腐心してきたのだろうと想像しています。そうしたこれまでの経過を振り返ると,改めて「公」について考えさせられます。もちろんここで「公とは何か」という話をしたいわけではありません。ただ,神戸市のこれまでの姿勢は,事態の全体像を把握することもせず,非常に偏っているということは言えます。「公」に値する存在には思えないのです。