娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

犯罪被害者という社会的弱者

 郷里での落ち着いた療養を終えて神戸に帰った娘は,暴力によって奪われた生活を取り戻そうとしますが,厳しい現実が待っていました。まず,身体が抱えた不調を診療・治療することが優先される生活になりました。当初から聴こえにくい状態になった右耳は,一向に回復の兆しを見せることはなく,最終的に医師から「回復しない」と告げられ,補聴器に頼ることになりました。障害者となるわけで,それまで健常者として暮らしてきた身として,「障害者」という言葉を受け入れることの意味についても大いに考えさせられたようです(障害者という字の「害」「碍」問題に関心あります)。
 さらには恐れていた打撃を受けた脳に起因する症状が徐々に現れ,通院する病院が増えていくことにもなります。心理的な不安定さなどもあるのでカウンセリングも受けていましたが,PTSD(心的外傷後ストレス障害)も確認されます。そうした症状が周りの人には理解されにくいこともあり,受入れ難い現実に繰り返し襲われることになります。小さい頃から「丈夫さも取り柄」と思っていましたが,今では病の塊です。
 加えて,働きに出られないことで生活費を確保できなくなります。療養を優先しなければなりませんので,仕事に出る時間を確保できず,また体力の回復も十分ではないため,結局,事件年度が終わるまで働くことはできませんでした。生活費を稼ぎながら大学院に通うという生活設計が破綻しました。大学院修了の年度でしたので,就職活動をする予定でしたが,それも進められる状況にはありませんでした。障害者になったことで,仕事の選択にも制約が生じます。辛うじて今年4月から就職はしましたが,病院での診療時間の確保や体力的な面での不足もあり,時間のやり繰りにかなり苦労をしているようです。

 こうした生活に追い込まれることで,萎縮し卑屈になる気持ちが膨らむことも増えたと思いますが,それに拍車をかけるような「他人の親切」も多かったようです。「生きていて良かった」「いつか傷は癒える」と言われることも少なくないようですが,「これほど残酷で綺麗ごとの言葉はない」と思うことの方が多いようで,被害者の事件後に背負う重さを知らなさすぎる言葉と感じられるようです。事件そのものについて「あなたにも不足があったのでは」的言葉を掛けられることも多いと言います。事件によって日常生活の急激な変化を余儀なくされ,それまでは普通に受け止めていた言葉も過敏な方向に流れます。このあたりの感覚は,変化の外にある他人にはなかなか理解できないものかもしれません。「犯罪被害者」の複雑さを増した心の中を理解することは,親であっても十分とはいえないのです。
 犯罪被害者等支援法前文に「近年、様々な犯罪等が跡を絶たず、それらに巻き込まれた犯罪被害者等の多くは、これまでその権利が尊重されてきたとは言い難いばかりか、十分な支援を受けられず、社会において孤立することを余儀なくされてきた」とありますが,まさにそうした生活になってしまったわけです。

 娘は,身体的にハンディを負わされ,それに加えて心理的な負担も増え,まさに「心身ともに」負担の増えた生活を強いられるわけで,そのような状況を考えると,身体を危められた犯罪被害者は「社会的弱者」です。高齢者・障害者・児童・女性・失業者・貧困層少数民族などによく使われます。合わせて社会での少数派,「社会的マイノリティ」でもあると思います。先に記した娘の状況は,明らかにこの二つの言葉に該当すると考えます。そして,犯罪によって社会での立ち位置が危うくされた被害者に対する世間の支援や理解はまだまだなのだとも思います。私自身も,この二つの言葉をこれまであまり意識することは多くありませんでしたが,今その反省を迫られていると思っています。

 身内に犯罪被害者を持つことで,犯罪被害者等基本法という法律があることも初めて知ったわけですが,先に記したこの法律の前文部分の後ろには「犯罪等による直接的な被害にとどまらず、その後も副次的な被害に苦しめられることも少なくなかった」と続きます。娘の事件の場合,事件関係者が「副次的な被害」をもたらしていると考えています。既に記したように,加害児童保護者からは謝罪すらないくらいですから,見舞いもありません(10/28『親は何考えているんだ』)。雇用者である児童館指定管理者は,娘の生活支援を一切行うことなく(10/15『見舞金も出さないんだ』),事件の矮小化を図ります(10/17『人と向き合う仕事と暴力』)。神戸市役所は,施設設置者としての主体性を発揮することなく,指定管理者の情報のみ社会に流布しました(11/09『事態は矮小化されている』)。
 神戸市役所が,バットで「殴られた」を「たたいた」発表・発言したこの言葉は,その最たるものです(11/26『凶器のバットは「やわらかい」のか』)。この表現は娘の心を傷つけた典型的な「副次的な被害」です。娘は最近,治療していただいている脳の専門医に「脳の損傷の回復が順調でない」と言われ,脳震盪の後遺症に関連して,「外傷箇所から脳内出血が起こるとか,パンチドラッカーで若年性アルツハイマー認知症になる可能性も考えられる。PTSDの影響で突然自殺に走るような行動も起こり得る」と説明され,「明日何があってもおかしくない確率が人より高い」と言われたそうです。先に記した娘に起こった諸々と合わせ,小2児童が娘にもたらした重荷がこれです。それを前提にしても神戸市役所の皆さんは,「殴った」ではなく「たたいた」と言い続けるのでしょうか。

 先に記した犯罪被害者等基本法の前文部分の後段には,「国民の誰もが犯罪被害者等となる可能性が高まっている今こそ、犯罪被害者等の視点に立った施策を講じ、その権利利益の保護が図られる社会の実現に向けた新たな一歩を踏み出さなければならない」とあります。まずは一人々々が犯罪被害者に対する視点を持つことが大事だと考えます。「おもてなし」が持て囃される今の世の中に欠けているのは,一人々々が身近なところで身近にいる弱者に対する「思いやり」ではないかと,最近の私は考えさせられています。