娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。苦しむ日々が続いています。事件について考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)です。

クロ現もAERAも取り上げた!!

 入院中の娘に,「お前の頭は父親譲りの石頭。爺さん代々の石頭だから死なずに済んだ」と話したことがあります。もちろん励ましのつもりで話したし,最悪の事態にならなかったことが嬉しかったからの冗談だし,娘もその言葉を笑いながら受けてくれました。しかし,郷里での療養を終えて神戸に帰った娘は,そんなに笑ってはいられないような現実に向き合うことになります。そのあたりは,前回記しましたのでご参照ください(12/10『犯罪被害者という社会的弱者』)。
 娘はもともと,学部生時代から教育への関心が高く,子どもを対象とする施設や組織で勉強がてらアルバイトをしていました。大学卒業後さらに登校拒否の子どもや集団学習に馴染めない子どもの勉強をしたいという思いが募り,大学院に進みました。そんな娘が小2男児に重い傷を負わされることになりました。子どもに対する複雑な思いもあったと思います。私は,子どもを相手にする仕事そのものを諦めるのではないかとも考えましたし,それも有りだと考えていましたが,娘にはその道から離れる考えは微塵もなかったようです。その部分は「石頭」を受け継いだのかもしれません。

 しかし,その「子ども業界」に残るという選択がもたらす試練も少なくなかったようです。子ども業界には,その仕事を聖域とし,過ちを犯した子どもには大きな愛で「まともな方向」に導くことに重きを置く「聖職者」も少なくないようです。そういう人から警察に被害届を出したことを批判する言葉を受けた話を娘から聞いていますし,そうした意見を持つ人が少なくないことも聞いています。
 私は,子どもであっても人を危める行動は決して許してはいけないと考えます。子どもであっても暴力は犯罪です。罪を犯したら聖域に置いてはいけないと考えます。聖域に住む人たちが犯罪に慣れている警察以上に事件を明らかにする方法を持っているとも思いません。未来を見据えた教導は,罪に向き合ってからの話だと考えます。娘が被害届を出したのは,そうした人々への異議申立ての意味を持つと私は考えています。娘が「子ども業界」に残る選択をした以上は,そうした偏見,頑迷な「石頭」との戦いも逃れられないのだと思います。

 関西で暮らす娘は,事件のことを理解してくれる人々と出会う機会を得ています。犯罪被害者の家族や学校のイジメ問題と取り組む人たちとは,被害者としての複雑な感情を理解し合える共感があったと思います。事件に関心を持った報道記者,市会で取り上げてくれる議員,教育問題に取り組む研究者なども社会の課題として娘の話に耳を傾け,支援・行動していただいています。それまで持っていた子どもの研究とともに,子どもの犯す暴力行為もその対象になっていったようです。最近の娘は,そうした中で事件とどう向き合うか,犯罪被害者としてどう行動するかも含め,これから先の生き方を模索しているようです。
 そうした支援の中で,脳震盪治療に実績のある医師の診療を受ける機会も得ています。親としては,多くの実績を持つ高名な医師に診ていただけることをありがたく思っています。神戸市は,事件現場に救急車が呼ばれなかったことに関連して,「脳の専門の非常に大きい病院が非常に近かった」と市会で答弁していますが(10/09『呼ばれなかった救急車),脳にも脳卒中とかの疾病を得意にする医師もいれば,頭部外傷への対応を得意にする医師もいるわけで,「脳の専門」だからというその理由は,今は詭弁に感じています。

 昨年12月に新聞報道に取り上げられたものの,神戸市役所から「大したことではない」情報が流されたこともあるのか,その後は一部新聞が追跡報道する程度になっていました。少しずつ神戸市が望む風化が進むのかな?という思いも増しましたが,今年8月と12月に,娘が直接出演もしくは意見提供をする機会がありました。前述の支援していただいている方々からの紹介でした。

 8月10日のNHK総合TV「クローズアップ現代+」夏季特集「あなたの情報が社会を変える」の中の「教師が殴られる」に匿名(ガラス越し)で出演しました。
  http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4170/
 AERAの 2018年12月10日号,大特集「親と先生682人の本音」中「鴻上尚史藤原和博のタコツボ脱出アドバイス」に「先生の悩み・子どもから暴力 事件化はNG?」として,娘の原稿が掲載されました。全文はネットにも「生徒から暴行されても事件化NGの風潮 鴻上尚史が斬る!〈AERA〉(AERA dot.)-Yahoo!ニュース」と掲載されています。
  https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181206-00000040-sasahi-soci
 両方とも,内容としては子どもの現場で大人が殴られたことに関する内容です。娘は,現場の人間が暴力を放置したため被害届を提出したことを説明し,それに出演者が討論する,識者が回答するという形式になっています。
 クロ現の討論でも被害届提出は当然とするコメントが支配的でしたが,そうした中で気になったのは暴力事件が起きた中学校の校長が「やはり学校で起こったことは学校で解決する責任を負っている」とする発言でした。先述した聖域・聖職意識の問題で,「暴力行為は犯罪」という現実の認識を誤らせる典型的な言葉に聞こえました。その聖職意識が子どもの犯罪を助長することに気付くべきだし,「ダメなものはバツ」から始めなければ本来の育てにならないと考えます。

 私は,神戸市役所担当者の仕事ぶりを「タコツボ仕事」と書きましたが(10/18『神戸市 被害者の取り扱い方』),この「聖域・聖職」意識の問題もタコツボ化に通じる視野の狭さを感じます。世の中の高度化・細分化・複雑化の中で,より多くの情報の中で判断できずに動けないでいる結果なのではないのか,と思うのです。「自分たちで」というと言葉の響きは良いですが,実際はそこに籠もってしまうことになっているように感じられるのです。「自立」と考えていたら「孤立」になっていた,ということでしょうか。