娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

「しつけ」という名の暴力

 千葉県野田市で起こった児童の虐待事件。何から何まで腹立たしく,痛ましい思いにかられます。親が「しつけでたたいた」と語っていることが最初の報道だったと思います。「しつけ」という言葉を親の特権のように振りまわし,暴行・暴言という暴力が繰り返された結果としての「子どもの死」です。昨年夏も目黒区で5歳児が虐待されて亡くなっています。以前からこうした話を聞くたびに「親になってはいけない大人が増えている」という思いを覚えていました。日が経つにつれてさまざまな情報が飛び出し,胸をつぶされるような話が次々出てきます。その絶望的な命の最後に,やりきれなさと憤りだけが増します。
 本来であれば家族の未来を担って期待される命が家族によって断たれてしまう,一番に守り・育む役割を側に立つべき親が暴力の側に回る,ということが意味することは何なのか。暴力の温床になっている家庭が増えている報道も有っています。家庭という温かさが基本の狭い世界を,静かに異様な方向にゆがめている親が増えていることなのでしょう。

 虐待は,家庭という世の中で一番小さな社会の中で起こるわけですが,ここで改めて記しておきたいのは,暴力というものは閉鎖された場所で起きるということです。虐待・DV・体罰・いじめ・・。家庭だけではなく,学校であったり,福祉施設であったり。括られた環境の中での暴力の報道をよく目にします。求められる目標のためにできた括られた環境の中にあることで,なぁなぁで見過ごしてきた部分もあるのかもしれません。そうして見逃していたことがいつの間にか度を超し,目に余る行為となり,それが高じて社会に裂け目として現れるのが暴力です。
 暴力はその括られた世界が破綻した合図です。暴力がうかがわれたら,即,世の中という白日のもとでその実態を検証するべきです。更生や再生という話はその次の話です。今回のような虐待やDVに関しては,原因となった親を家庭に戻してはならない,戻れないことを償いとして生きてもらわねばならない,狭い世界の中に閉じ籠もってしまう人格の見極めは厳格に行なわれなければならない,と私は考えます。

 括られた世界が学校や施設,組織の場合,括られた中での思惑が絡む分,事実解明に時間がかかるような気がします。娘の事件を見ればわかるように。まずはその括られた世界の中での判断を疑うことから始めなければならない,というのが私たちの場合でした。自分のいる小さな社会を閉鎖させてはならないということを意識する,世の中の制度・常識から判断する,そこから始めなければならないと考えています。
 今回の虐待事件に関連しては,学校・教育委員会児童相談所の不手際・不作為がボロボロ出てきていて,それがさらに胸をしめつけます。子どもを守るための組織も,結局自分たちの世界に閉じ籠もり,それを増幅させているように感じています。無責任体質にも通じます。私たちの場合は,無作為に対する言い逃れという不誠実に苦しめられてきました。

 こうした事件を涙だけで終わらせるわけにはいかない,それぞれが我が身のこととして考えなければならない問題なのだと思います。児童虐待防止法には,虐待をうかがわせる児童を発見した時に児童相談所などへ通告する義務が記されています。身近にある暴力を一つひとつ減らしていく行動が求められています。自分たちの関わる世界が,その外側に広がる世界につながっているかどうか,世間の常識の中にあるのか。そのことを多くの場所で考える必要があると考えるのです。