娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

少年事件と報道

 娘の事件が世間に知られることになったのは,事件から半年以上も経過してからでした。そのあたりは以前にも記していますのが(’18/10/10『神戸市役所って,敵だったんだ』),遅れた事件報道は,少年事件と報道の関係について考えるきっかけになったと思います。
 もちろん,娘が児童に殴られなければ考えもしなかった課題ですが,事件報道の中でも少年が加害者になった事件の場合,その報道量が少ないように思われてならないのです。最近表面化している虐待の例でもわかるように,子どもが被害者の場合はかなりの報道量があるように感じられますし,それによって多くの人が虐待という暴力の実態を知ることになるわけであり,多くの人が事件の抱える問題を考えることになるわけですから,そうあるべきかと思います。しかし,いじめや少年による暴力行為など子どもが加害側に回った場合,報道の収束は早く,その分考える余地が減るような印象を持っています。

 私がそのことを考えるようになったきっかけは,娘の事件の5カ月後,札幌市の路上で20代の女性が背後から刃物で刺されて重傷を負い,警察が殺人未遂事件で捜査を始めた事件でした。ほとんどの新聞やニュース番組が大きく取り上げていたように記憶します。ところがその翌日か翌々日に,容疑者として「12歳の男子中学生」が保護されたという事件報道がありました。被害女性との面識を持たない加害少年が「人を傷つけたかった」と供述しているとの話は,娘を傷つけた児童と共通する性質に思えたので特に関心を持って注目したのですが,この「12歳の男子」という報道以降,この事件の情報を目にすることはなくなりました。

 このことは,少年法の中に報道規制に関連する条項があることも関係するのだろうと考えています。法では(記事等の掲載の禁止)として「当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない」とされています。「非行のある少年に対して性格の矯正や環境の調整に関する保護処分」を行なう,更生を主とする少年法としては当然の考え方なのであろうことは理解できます。
 また報道機関そのものも,実名報道禁止の有無に限らず,自主規制として匿名報道をすることが少なくないとも聞きます。法律に規制条項があれば,より慎重にならざるを得ないのでしょう。

 私がこの問題に注視するのは,加害少年とともに被害者の存在も隠されてしまうと感じているからです。ある日突然事件に巻き込まれて被害者となり,それによって生ずる日常の不都合に襲われることになります。療養生活を強いられる,仕事に戻るまで時間がかかる=収入を断たれる,復帰しても体調を優先に暮らさなければならない,などなど。自分の日常生活を取り戻すのに苦痛を伴う,社会の中で自分の存在が異質に思えてくる,というような悩みも付随するでしょう。事件は被害者にそうした重荷を負わせます(’18/12/10『犯罪被害者という社会的弱者』)。被害者が社会から忘れられると,事件で負わされた重荷を一人で抱え込まなければなりません。少年犯罪の場合,事件そのものが社会に十分周知される前に加害者の姿が見えなくなることで,被害者の存在も忘れられるのではないか。そんな疑問をずっと抱えています。大人の犯罪と比べて不利になっているのではないかと。

 被害者にとって事件のことは,一生の中で忘れたいもの,思い出したくもないもの,というのが本音でしょう。それでも,可能な範囲で社会が事件情報を共有し,被害者が一人で重荷を抱え込まないように周りで支える。そんな社会でなければならないと私は思います。