娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

暴力・救急車呼ばず・隠蔽・・・また?

尼崎高校バレーボール部の事件を考える

 いじめや体罰など学校での暴力に関する報道が少なくありませんが,随分と古典的な事件が出てきたなぁと思いました。尼崎高校バレーボール部の事件です。この事件,私ども親子にとっては既視感を覚えるような光景があります。

 事件の経緯をみておきます。4月29日尼崎高校男子バレーボール部での練習中,コーチの男性臨時講師が3年生部員の顔を10回以上平手打ちし,部員は倒れて20~30分意識を失いました。コーチは別棟にいた男性監督を呼びますが,監督は意識があると判断して救急車は呼びません。同日深夜になって「頭が痛い」と訴える部員の話に保護者が救急車を呼び,病院で脳震盪などと診断されます。ここまでが事件の前段です。5月7日同校への匿名電話で体罰が発覚,9日に市教委が「けがはない」と体罰を公表したものの,「けがの診断書がある」との情報が寄せられます。市教委はけがや失神の事実を把握し,15日に部員が一時意識を失ったことや,顔面打撲や左耳の鼓膜が破れるなどのけがをしていたことを発表しましたが,ここに隠蔽の疑いも加わります。

 まずは体罰から。平手だろうが拳だろうが暴力に変わりありません。コーチと部員という強い上下関係が暴力を誘因した部分はあったはずです。「指導」や「しつけ」などの名の下での暴力は,旧軍時代のような錯覚を覚えさせますし,昨年のこの時期騒ぎになった日大アメフト部事件を思い出します。コーチという言葉には指導の意味もありますが,暴力ではないはずで,彼は明らかな加害者です。「市教委で処分を検討」との報道もありましたが,被害者から被害届を出して警察がきっちりと現場や関係者を調べて事件を明確にする(’18/12/12『クロ現もAERAも取り上げた!』)。それが原因究明と再発防止には欠かせないことです(このブログを書いている時点で警察の姿が見えないのが気になっています)。社会から暴力を減らすためには,起きた暴力を曖昧にすることなく向き合う行動の積み重ねが必要だと考えています。

 次に救急車です。スポーツ現場では頭部外傷に伴う脳震盪への対応が広がりつつあると考えていますが(’18/12/03『世間では救急車を呼ぶのが常識!』),暴力を振るうようなコーチや救急車を呼ばない判断をした監督にはそうした素養がなかったのでしょう。娘に救急車を呼んでくれなかった現場の人たちに共通するものを感じます。頭に打撃を受けて一時的にでも気を失った人を,「意識がある」と判断した時点でアウト!です。頭部外傷や脳震盪の怖さを知ってもらうためにも,教育現場ではこれを機にもっと普及してほしいと希望します。

 そして隠蔽です。学校への匿名の電話があって体罰が発覚したことで,教頭が監督とコーチが提出したメモを基に報告書を作成します。しかし「鼓膜がやぶれていた。意識を失った」とのメモの記述は記載しません。また校長は,メモを見ず報告書だけ読んで市教委に報告していたと言っているようです。校長・教頭の行動は,管理職として考えると不自然です。監督・コーチが書いたメモの中から削除した意図をこそ,明確にしてもらいたいものです。一方の監督ですが,「保護者が大ごとにしたくないと話したから」と嘘の説明をしたことも明らかにされています。被害者側の意向を無視した言動をされた経験は私どもにもあるので(’18/10/24『聞いた話ですが』),それを思い出します。隠蔽したい人たちは都合よく被害者を使います。それでなくても暴力の被害者は,心身ともに非常に厳しい局面に追い込まれることが少なくありません(’18/12/10『犯罪被害者という社会的弱者』)。被害者としての自己防衛が必要な場面が出てきます。だからこそ,被害者の意思表示としての被害届提出が必要なのです。

 この事件の動き,事件の事実公表にかかる部分について,学校の指導的立場にある市教委が中心になっているようです。指導する立場の人は,事件全体を俯瞰する位置からコトの進み具合を判断していかなければならないでしょうし,何よりもそれが社会的に受け入れられるものでなければならないはずですが,これまでのところ尼崎市教委はそのように対応しているように見えます。私はそのことを,神戸市役所を反面教師に学びました。今後については,被害者や他の部員を念頭に置いたうえで,多くの人が納得できる方向を目指してほしいものです。

 もうすぐ5月24日,娘が事件に遭って2度目の日。あれから2年経っても,私どもの状況はほとんど変わっていません。加害児童保護者からは主体的な謝罪はありません(’18/10/28『親は何を考えているんだ』)。事件の隠蔽を主導した児童館指定管理者は,雇用している被害者の休業中の支援をしませんでした(’18/10/15『見舞金も出さないんだ』)。そして施設設置者の神戸市は,指定管理者の隠蔽に加担する立場をとり,方針転換はありませんでした。暴力に対して毅然とした対応が取られていないので,事件を教訓とした再発防止策は取られていないと考えています。指導的立場の役割を果たすべき人たちがそれを放棄したことが,進展しない要因の一つとなっています。尼崎市と神戸市の違いは,指導的立場にある人たちの,自らの立場に対する覚悟の差,公に対する意識の差でもあると考えています。