娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

「指定管理者」という隠れ蓑

 私たちの質問に対する神戸市からの回答の分かりにくさについて書いてきましたが(’19/07/14『問いと答えがかみ合わない!』),もう一つ分かりにくくさせている要因が「指定管理者」の多用です。3月の回答を踏まえて,もう一度整理しておきます。

 昨年6月回答分でも,事件現場の状況や被害者への対応を尋ねると,「指定管理者からの報告に基づいた説明」をしており,その対応は「適切」との回答でした。今年の回答も同様の姿勢は変わらず,指定管理者からの情報にのみ依存する状況はそのままなので,前回の回答文まるコピーという荒技まで繰り出しています('19/04/22『回答,前回のコピーはないだろう!』)。それが背景にあるので,情報の真偽を確認する,検証するという行為もうかがわれません。指定管理者からの報告を客観的に判断できる情報を持ち合わせないので,検証ができないというのが実情でしょう(’19/04/23『検証って,そんなもの?』)。指定管理者の行動に疑問を質しても,指定管理者の報告にそう書いてあるから「妥当」。つまり,指定管理者の報告はスルー。それが神戸市における指定管理者制度の流儀なのでしょうか。不思議です。

 加害児童への対応に疑問を呈すると,児童を良く知る指定管理者が対応するのが適切だから「市は見守っていた」との回答でした。被害届による調査で児童の触法行為,つまり大人の場合の犯罪行為であることが確認されています(’18/11/05『児童はなぜ野放しにされたのか』)。「市は指導する立場」と言うのであれば,ここでこそ少年法に基づく指導が発揮されるべきだったはずですが,ここでも指定管理者の報告の段階に留まっています。

 前回の質問回答の時もそうですが,回答の中に「指定管理者」とする場面が多過ぎて,受け取る側からすると「また指定管理者か」という虚しさを覚えるところです。指定管理者は,神戸市の弁解の逃げ道,隠れ蓑にしか見えないのです。これも回答を分かりにくくしている要因と私は考えるのです。もしそれが神戸市の狙いとすると,かなり策士です。いざとなったら蓑を脱ぎ捨てる=全てを指定管理者のせいにすれば済むわけですから。

 本当に指定管理者に任せるだけで済む話とは思えないのですが,「業務上起こった事案」だから指定管理者に任せるのだと言います。ここまで指定管理者を多用するのであれば,指定管理者制度の中の根拠を記してほしい,根拠となる協定上の条文を示してほしいと考えてきましたが,これまでの回答にはありませんでした。「指定管理者との協定の中ではこのように決められています」というような記載は,皆無です。
 これに関連して考えておかなければならないのは,協定作成においては業務遂行上の過失を想定して決めていくとは思いますが,暴力など犯罪行為を想定した規約を設けるものでしょうか。それが指定管理者制度の中での一般的な考え方でしょうか。バットで人を殴るのは犯罪行為です。児童の行為は,協定の想定を超えた行動,故意による触法行為,「事件」だと考えます。そのような場合でも,協定上で「指定管理者に属す」と記すのが一般的なのでしょうか。制度に詳しい方に教えてほしいものです。

 そして問題は,ここまで神戸市が信頼する指定管理者の事件情報が,矮小化された,隠蔽を意識したものであった,となった場合はどうなりますか,という話です。私はこれまでも矮小化を感じさせるものがありましたよ,ということを綴ってきました(’18/10/11『「事故」現場はどのようにできたのか』)。これも,市の回答のわかりにくさにつながる背景だと考えています。

 昨年5月の質問の中で「事件そのものの矮小化につながる話が発信された」と記したところ,「誤った内容や矮小化につながるような説明はしておりません」と回答がありました。そうです,矮小化させたのは市ではなく指定管理者です,と私は考えてきましたが,今回の質問にも入れた「殴った」が「叩いた」に変えた回答から考えると,市が「矮小化」させた部分もあるのではないんですかね(’19/04/29『「特段の理由」があるから言葉はかわるんです!』)。こうなるとやはり「共犯」と書かざるを得なくなるのです。

 いずれにしても,神戸市は初動の時期には全く何もしていないことが明らかです。だから私は,彼らは「不作為」とこれまで書いてきました。市が被害者に「会う立場にない」としていたいのも,その不作為を認めたくないからにしか思えません。彼ら自身が自ら現場を,状況を確認しようとしなかった。そこが一番問われるべき部分のはずです。これまでの回答からは,施設設置者としての責務,公としての姿勢が見受けられないのです。