娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

影に隠れ,視野の広い判断はできない

 私は,事件以後これまでの期間を3期に分けて考えています。1期は事件発生から被害届が提出される以前まで。2期は被害届提出から記者会見まで。3期は2018年3月の議会から現在までです。1期については(’19/08/04『記録で確認できる隠蔽・矮小化』)で核心を記したつもりです。ここでは2期について振り返っておきます。

 事件1カ月,郷里での療養から神戸市に戻った娘(被害者)は,自分の人生を狂わせた出来事が事件化・報道されていないことを知り,警察に被害届を提出します。私と娘は,警察署に被害届提出の相談した翌日の2017年6月28日に指定管理者を訪問し,警察への協力を要請していますが,このことはその日のうちに神戸市こども青少年課に報告が入れられています。しかし,神戸市から被害者側に接触する動きはありませんでした。疑問を感じた私は,被害届提出後の7月12日,こども青少年課に電話を入れました。被害者がどのような窮状にあるのかを説明したつもりでしたが,それっきりでした。情報公開でみると,この電話記録は神戸市には残されていません。神戸市の『公文書管理規程』で考えると,「重要であるとは認められ」なかったということになります。

 指定管理者の情報とは異なる情報の持つ被害者の登場は事件の大きな転機だったはずです。本来であれば,被害者の情報も収集をしたうえで,より大きな視点で状況判断がなされるのが,公の姿ではないかと私は考えています。主体的動きが見られない神戸市の対応は,全く理解できません。施設設置者として誠に不可解としか思えません。彼らはなぜ動かなかったのか。

 まず考えられるのは,指定管理者との関係です。神戸市と指定管理者の間では,被害届以前に一旦事件を収束させていました(前出『記録で確認できる隠蔽・矮小化』)。指定管理者のシナリオに乗った経緯があるとはいえ,覆せない立場ではないはずです。ただ,指定管理者は被害者の生活支援もしないし(’18/10/15『見舞金も出さないんだ』),何より隠蔽・矮小化のシナリオを準備するしたたかな組織ですから,現場の勢いは指定管理者側にあったと考えられます。先に記した私が電話を入れた際,係長が「基本的に指定管理者が対応するが,市として動向を注視」的返答をしていますので,この時点で指定管理者に主導させる方針を確認し,「被害者の対応は指定管理者が」となっていたと推測しています。それが,「市が被害者に会う立場にない」という回答の裏側でしょう。指定管理者制度によって,委託側である公が現場の知識技術から遠ざかるという懸念が見事に表出した状況が見られると考えています。これまで「市は指導する立場」的回答を何度かされていますが,指定管理者の言いなりで,とても指導した動きが感じられません。制度上の具体的説明もされないままにあります(’19/07/29『「指定管理者」という隠れ蓑』)。市が指定管理者の影に隠れていることに対する疑問です。
 もう一つは組織内での問題です。指定管理者からの報告が「大ごと」ではなく,電話報告を受けた担当が現場を確認にも行かないと即断できる=軽易と受け止められる内容ので,市の「専決規程」で考えると課長専決で進められたはずです。12月の記者会見の仕切りを課長が行っているようですし。課長は事件12日後の6月5日,「手打ち式」に臨んで指定管理者に労いの言葉をかけ,そこで一件落着としたはずでしたが,そこに異議を申し立てる行動で被害者が登場したわけです。一旦,事件(神戸市は「事故」と認識)の収束を上司に報告したであろう課長が,この被害者の登場をどのように判断し,どのように上司に報告しているか,上司はそれにどう答えたのか。私はそこがとても知りたいところです。現場の状況を市として共有できていなかった=広い視野の判断がなされなかったのではないかという疑問です。

 冒頭に記した事件以降の時期区分の「第2期」は,上に記した2点の疑問が,記者会見で具体的に表面化するまでの時期ととらえています。被害者側にとっては予期しない方向,被害者が軽く扱われる方向に引きずり込まれた時期と考えています。

 なお,前回記した最近報道された神戸市の児童館で起きた事件を見ると(’19/08/09『神戸の児童館でまた,それ暴力』),市が事件直後に行動している説明があるようですが,娘の時に指定管理者に押し付けた状況との違いはどこにあるのでしょう。しかも事件直後に動いているにも関わらず,報道されるまでは2カ月以上も空白が続く部分は,娘の時と同じです。娘の事件と違う要素と共通する要素について,上に記した疑問と重ね合わせながら考えていく必要性を感じています。