娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

被害者を追い込むのは

 この8月から9月にかけての間,いくつかの事件報道などで,加害者・被害者について考えさせられました。まず,気になった3件について簡単に記します。

①神戸市兵庫区の児童館で5月に起こっていた事件で,8月初旬になって報道されました。児童館の学童保育に通う小2女児が,同じ小学校に通う複数の男児に,服を脱ぐように強要されたり,体を触られたりする被害を受けていたとの内容です。小学校は重大ないじめ事案として男児たちを指導したようですが,女児は転居・転校しています。このことについて女児の父親は「被害者側がなぜ引っ越さなければならないのか」と憤っているとの報道でした。憤って当然の話です。

②17歳の俳優・春名風花さんが8月下旬に「いじめる側こそ学校には来ないでください」と訴えたところ,一連のツイートが拡散されました。春名さんは,この問題を小学生の頃から発信し続けていて,この8月には『いじめているきみへ』という絵本も出しています。これに関連して,教育社会学者の内田良氏が,自身のネットニュースに『いじめ加害者の出席停止ゼロ』のタイトルで取り上げています。この中で文科省のデータをもとに「いじめ加害者の出席停止・昨年度0件」「いじめ被害者の不登校・昨年度404件」と記しています。学校教育法に定められている出席停止を学校がためらう理由についても触れ,制度本来のあり方からかけ離れた現実を修正していくことの難しさを記しています。教育を受ける権利を重視して考えれば,被害を受けた生徒の権利がまずは保障されるべきであろうものが,現実には全く逆の状況が起きているとしています。私は記載のあった数字が予想外のものだったことに驚くとともに,数字があらわす現実に嘆き・怒りを覚えました。

③埼玉県川口市の県立学校1年の男子生徒が,9月初旬にマンションから転落死しました。この生徒は中学時代にいじめを受け,3回自殺を図っていたとされています。この生徒が自宅に残したノートに「教育委員会は大ウソつき。いじめた人を守ってウソばかりつかせる。いじめられたぼくがなぜこんなにもくるしまなきゃいけない」などと記されていたとのことです。余りにも辛く切なく重い言葉が残されましたが,教育関係者はどう受け止めているのでしょう。

 三つに共通するのは,被害者を追い込む不合理です。暴力行為にでた加害者がのうのうとそれまでの現実の中で過ごし,いきなり暮らしの変更を余儀なくされた被害者にはさらなる苦しみがかぶさるという図式です。加害者と被害者がいる場合,事件後のケアに関しては被害者が優先されるべきではないかと私は考えますが,現代社会ではそうなっていないことを物語っています。理不尽です。おかしいです。
 被害者は,加害者の故意による行動で突然生活を狂わされ,心身ともに疲弊の中に置かれたうえで,さらなる生活の変更を余儀なくされ,追い詰められます。平穏な日常を取り戻したくても,「二次被害」という理不尽が続いて取り戻せずにいる実態があります。加害者・被害者の周囲にいる人はそのことに気付きもしないのでしょうか。それとも気付いても何もしないのでしょうか。なぜ被害者側が追い込まれなければならないのでしょうか。私には,被害者のそばにいる行政や教育関係者の過失や怠慢のように思えてなりません。

 娘が被害者となったことで,暮らしも含めて被害者のさまざまを考えてもきましたが(’18/12/10『犯罪被害者という社会的弱者』),被害者への負担が減らされる方向はなかなか見えません。ここでは加害者の年齢のこともあるので「犯罪」の文字は控えますが,「暴力」が行われた結果の後の出来事です。二次被害の問題をもっと多くの人に知ってもらいたいと思っています。「世の中は弱い者にとってこそ過酷な生きづらいものになっている」的言説を目にすることも少なくありませんが,暴力被害者は日々それを実感させられます。
 この問題は,単に被害者・加害者の問題だけではなく,この社会の中にそうした構造があるのかもしれません。「被害者が泣きをみる」とでもいうような。力を誇示する歴史を持つ社会の中に要因があるように思うことがあります。かなり大きな問題なので,一被害者の父親には手に余る問題です。このブログの中では,虐待・DV・いじめ・体罰パワハラなどの話にも触れてきましたが,日々の報道に触れていると,力を持つ者が他方に屈従を強いるような関係が広がっているようにも思えます。生活の近くに忍び寄る暴力を減らすためには一人々々が暴力に対する関心を少しずつでも持ってほしいと考えていますし,一人でも多くの人が被害者に対する関心を高めてくれることを願うばかりです。