娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

虐待報道が続くことの意味

 最近,虐待に関する報道が繰り返されています。

 先月,福岡県田川市で1歳の三男に向けてエアガンを数十発発射してケガを負わせたという報道がありました。昨年11月のことで,その翌月この子は肺炎で亡くなっており,共に24歳の両親が傷害容疑で逮捕され,後に保護責任者遺棄致死容疑で再逮捕されています。エアガンの発射について父親が「長男が撃った」と供述していたものの,3歳の長男は「パパが撃った」と話したとのことで,何とも気の滅入る話です。長男以外にも生後3カ月の長女もいるとのことですが,この両親,人としての成長が不十分な,親になってはいけない大人だったのではないか,との思いを禁じえません。 この夫婦に関して市などの関係機関が,死亡した三男が生まれる前から「支援が必要な家庭」とマークしていたとのことで,虐待だけでなくネグレクトの指摘もあっています。だとすると,子供を守るための制度の在り方も問われる話になります。

 今月に入り,東京・豊洲タワーマンションで3歳の男児が同居する母親の交際相手の男から暴行を受けて死亡したとして,この男が暴行致死の容疑で逮捕されています。事件があったのが9月末で,「入浴中,目を離した隙に浮いていた」と救急隊に説明したようですが,警察は新たな調査を導入して調べた結果,男児の腹部に内蔵損傷による失血があったことや肺に水がなかったことから逮捕に踏み切ったものの,男は容疑を否認しているようです。容疑者が大手重工業メーカーの社員で現場がタワーマンション,というドラマのようなシチュエーションに引きずられもしましたが,自らにも1歳の長男がおりながら,交際相手の子供をどのような視線で見ていたのか,自らの子との向き合い方の違いは何からくるのか,そのあたりはとても気になるところです。

 さらに、千葉市稲毛区で11月下旬に生後4カ月の長男を殴ってけがをさせた父親が逮捕されました。容疑者は千葉県職員で妻も同じとのこと。経済的には安定した状況にあったものと思いますし,職場が「政策法務課」とありますので法律的なことに対する知識がある人ではないのか,とも想像しています。しかし「一生懸命やっているのに泣き止まなかった」との理由は余りにも幼稚に過ぎます。知識はあっても親になるだけの準備は不足していたのでしょうか。逮捕後に「発覚しなければ続けていたと思う」とも供述しているようですが,反省から出た言葉だとすると救いにはなるのですが。30代の妻は気付いていたともありましたが,父親・母親としての話し合いはどうだったのでしょう。

 さらにさらに,高知市で2月に生後8カ月だった次女に暴行を加えて意識不明の重体にしたとして,会社員の男が今月逮捕されました。入院中の次女に関し,複数の専門医が「乳幼児揺さぶられ症候群」とみられるとの見解が示しことから,父親が頭を激しく揺さぶったか床に落としたとみて捜査が進められたようです。父親は「けがはさせたが故意ではない」と供述しているとのことです。長女もいるとのことなので,この長女は大丈夫なのかということに思いが飛びました。

 家庭という最も身近で大事にしなければならない関係性の中で,本来的に子供を庇護する立場にある者が,子供に暴力を振るう側に回るという「虐待」を目にする機会がこうも続くことの意味を考えさせられました。もちろん私の暴力に対する関心は娘をバットで殴った加害児童から発していますが,子供の暴力性は大人から引き継いだものと考えているからです。

 先月末,法務省による令和元年版犯罪白書の公表がありました。この中で,児童虐待の検挙数に関して2003年は212件だったのに,昨年は1380件と増えていることを記しています。全国の親子の数から見れば微々たる数字かもしれませんが,この変化を小さく見てはいけないのだと思います。繰り返されている報道は,虐待による重大事案が増えている,その微々たる数字の表面化でもあるのでしょう。その数字の周囲にたくさんの予備軍がいることを警戒しなければならないはずです。特殊な人が虐待に走るのではなく,ごく普通に暮らしている人が虐待を行っているわけですから。虐待の行為者が父親ばかりなのは,男性の持つ好戦性からくるものなのでしょうか。虐待に走る事情を考察するには至りませんが,一人ひとりが身近に起きているこの暴力に対する関心を高めていくことが必要なのでしょう。

 犯罪白書には,配偶者間の暴行や殺人も増えているともありましたが,家族間の距離感に狂いが生じてきていることを示しているようにも思えます。これまでの家族観では不足があることを示しているのでしょうか。私たち自身が経験の中で知る暴力的行為に関し,改めて振り返ってみることを求められていると考えています。