娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

闇に葬られる,のは

 私がこの正月に入ってからの報道で気になったものを拾うと,イランの旅客機撃墜とか,ボーイングの連続墜落事故情報の隠蔽とか,三菱電機の労働問題への不誠実対応など1面に載る記事でも背景に「隠したい」を感じるものが少なくありませんでした。背負うものが大きくなれば「隠したい」が膨らむのも世界共通のようです。最たるものは「桜を見る会」でしょうか?それはそれとしても私がここで取り上げるのは,普通の暮らしの中で起きた暴力に関わる話です。そうした記事の中で,「闇に葬った」という見出しに引っかかりました。「隠蔽」に敏感な私にとって「闇に葬る」は隠蔽と同義語です。

 まず今月23日の新聞に掲載された内容をなぞっておきます。東京都府中市の小学校でいじめを受けたのに校長や教諭に放置され,心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したとして,20代の女性が学校の設置者である府中市に損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で,東京高裁は学校側の過失とPTSDの因果関係を認め,市に756万円の支払いを命じたというものです。訴えの内容は,女性が小学校高学年から同級生の男子3人に暴力を継続的に受け,靴を隠されたりバケツの水を頭から浴びせられるなどのいじめを受け,強制わいせつ罪に当たるような行為もあったようで,6年生の秋には不登校になり,医師からPTSDと診断されたといいます。ところが,女性を診断した医師からの「PTSDの原因はいじめ」との説明に対し,校長と学級担任はいじめを否定して「ふざけ合っていた」と反論し,取り合わなかったというのです。問われたのは,この校長や担任の対応です。
 校長や担任の対応は保身見え見えのあきれた話で,このような人物が教え育てる現場にいることが残念です。医師の説明に対して「調査によればいじめは存在しない」「児童のふざけ合い」と反論し,責任回避の態度を取り続けたとされます。「正直に誠実に」「事実と向き合う」という子供たちへの教えとは逆の行為で,暴力や命の重さに対して余りにも鈍感に過ぎます。そうした校長らの対応に対して裁判長は,「いじめがあったことを前提とする対策を全く検討せず,校長を中心にいじめ問題を封印して闇に葬った」と指摘し,「こうした対応が,PTSDの回復を著しく遅らせ,今日まで症状を長期化させる原因になった」と断じ,児童への安全確保義務を怠ったと判断したとありました。実に真っ当な判断だと考えます。市教育委員会は「判決文を精査して対応する」としているようですが,多くの人に納得してもらえる処分を期待するところです。

 被害者は納得できる判決を得たわけですが,私が何よりも気になったのはこれが2審で,1審の判決では女性の請求が棄却されていることです。今もPTSDの治療を続け,仕事に就くのが困難な状態だというこの女性の主張が,1審ではくみ取ってもらえなかったわけです。奈落の底に突き落とされた心境だったはずです。暴力による被害者の主張が受け入れられなかったから始められた裁判とはいえ,暴力のことが伝わらない,わかってもらえない苦しみがずっと続いたわけで,この判決を得るまでのつらさは尋常ではなかったはずです。過酷な道のりで,裁判に臨むことそのものが「二次被害」ともいえます。女性は判決後,代理人を通じて「傷が癒えることはないと思うが,これからは前を向いて歩いていけると思う」とコメントしたとのことですが,事件を取り巻く人たちの悪意が被害者を追い詰めることに関心を寄せていただきたいと思います。

 これまで見た校長らの対応は,事件を「たいしたことではない」「被害者が大袈裟に騒いでいるだけ」としたい姿勢が垣間見えるものですが,記事を読んだ時に私は既視感を覚えました。娘の事件では,児童館指定管理者が事件を軽易なものとして神戸市に報告し,神戸市はその報告を検証することなく,むしろ依存状態を続けます。被害者からの被害届提出の結果,暴力行為に走った児童が児童相談所に通告されても何もしませんでしたし,「事件」ではなく「事故」としたままです。上の裁判と娘の事件に共通するのは,暴力事件を被害者に押し付けて平然としている人たちがいるということです。闇に葬られるのは被害者なのです。今の社会は被害者に対する関心が低過ぎます。事件という衝撃に突然引きずり込まれて生活を狂わされ,立ち直りたくても立ちふさぐものが次々現れる境遇に追い込まれることを知ってほしいのです。娘も都度々々落ち込みます。だからこそ,「正直に誠実に」「事実と向き合う」ことの大切さをより多くの人に考えていただきたいのです。