娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

児童生徒からの暴力に関する署名

 神戸市の児童館で小2児童にバットで殴られた娘は,子供からの暴力被害に遭った人たちと事件を社会的な問題として考えていくことを目的に,昨年3月『児童・生徒からの暴力被害者の会』を組織しました。活動が必ずしも順調というわけではなかったと思いますが,さまざまな方々のご支援の中で何とか続けられてきています。その活動の中で先月末,厚生労働省文部科学省に対する署名の提出が行われました。娘と離れて暮らす私は何の手伝いもできなかったのですが,この署名活動について触れておきます。

 娘は事件後,時間とともに事件や関係者の対応に多くの疑問を抱くようになり,同じような被害を受けた経験を持つ人と接触する機会を持つようになっていきます。「小2児童から殺されそうになった」という自らの経験が,児童・生徒から職員に対する暴力行為が決して稀なことではないことに気付かせ,「子供が加害者で大人が被害者だとなぜケアが受けられないのか」という素朴な疑問も膨らんだようです。同時に,こうした暴力行為に関する基礎的な調査すら足りていない現実にも気付いたようです。
 子供から職員への暴力事件について,学校に関しては文科省が小中高校を対象に毎年行っている「問題行動調査」で把握できるようですが,児童館や学童保育所など児童福祉施設での実態調査は全く行われていないようです。児童館や学童保育については,職員の専門性などもっと基礎的な課題あると考えていることを以前記しましたので(‘20/01/14『学童保育の職員の質は?』),参照していただければと思います。いずれにしても,児童・生徒とそこに働く職員との関係には,多くの現代的な課題が内在していると考えています。

 娘たちは「暴力を受けても救急車も呼べない教育・児童福祉関係者の現状を変えたい」というタイトルで,オンライン署名活動を行っていました。1月27日に参議院議員会館で開かれた署名提出の集会には,複数の国会議員の出席もあったようです。会では娘から署名活動の報告を行うとともに,児童館など学校以外では暴力が起こらないかのように想定されている実情や,SNSやオンライン署名を通じて子供と接する職場での子供からの暴力行為を体験した声が少なくないことも説明したようです。それとともに自身の事件に関連して,施設設置者の神戸市が被害者の疑問に何ら答えてくれないこと,同じ神戸市の児童館で起きた事件で被害者も児童の場合は対応が違うこと,指定管理者が共済制度に入っていないことや事件後に何の救済措置や賠償を行わなかったことなど,被害者が置かれる不利な状況も説明したようです。
 また,会の創設時からアドバイスをいただいている内田良名古屋大学准教授から子供関係職場における暴力被害の説明をいただいたようです。この中で「児童・生徒から職員への暴力があると,悪いのは子供ではなく職員の指導力不足として片付けられる」児童福祉の伝統的な思考や,「暴れる子供たちを理解しなければという聖職的な考え方によって被害が見えてこない。先生には指導できないことがあるという前提で考えていかなければならない」という話があったようです。
 そうした進行のうえで,子供関係職場での実態調査と教育・児童福祉関係者が安心して働ける環境づくりを求める32,699筆のオンライン署名を文科省厚労省の担当者に手渡したようです。

 集会に関する娘から小さなメモに気になる文言をみつけました。厚労省の担当者から「児童に限らず福祉施設は利用者第一なので利用者が暴れて怪我しましたと言われても追及できない。職員ならなおさら」的発言があったようなのです。メモなので事実とは異なるかもしれませんが,私はこの言葉に引っかかりました。この言葉は,福祉の現場での利用者と職員の難しさを説明したものだと思っています。先の内田准教授の説明とも共通する現状を福祉の現場に即して説明したものかもしれません。しかし公の立場にある人の発言として受け止めると違和感が湧いてきます。そしてそのことは神戸市や児童館指定管理者,娘の被害届提出を非難した御仁に共通する思考に思われてならないのです。
 なぜか。暴力行為をうやむやする言い訳にしか思われないからです。暴力の許容につながることではないのでしょうか。そうした姿勢が,重傷を負った人を前にしても救急車を呼ばない行動につながると考えています。そのようなこれまでの思考を捨て,「暴力を許容しない」ということから考え始めるべきだと思います。そうした考えを多くの方が持つことでしか,社会から暴力を減らす動きは生まれないと私は考えます。たとえ子供であっても,子供だからこそ,暴力を認めたりうやむやにする社会であってはならない,もちろん大人も,という話です。