娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

暮らしが変化を強いられる時

 新型コロナウイルス,本当に大変なことになってきました。病原体は,飢餓・戦争・自然災害と並ぶ人類生存の長い間の課題と聞いたことがあります。人類の命を脅かす未知のウイルスが世界中を急速に広まり,その勢いのまま私たちの暮らしに迫ってきました。報道で日々見聞きしながらも遠くに感じられていた危機が,ここに来て一気に迫ってきた感じを持っています。さらに緊急事態宣言という形で,国民としての振る舞いを求められる暮らし,より自覚ある行動と我慢を強いられる生活の最中に放り込まれました。

 全国一律休校を求められたあたりから具体的な行動制限が始まりました。通勤を避けるための働き方の変化を求められたうえに休業を求められ,日常生活での立ち入り制限を求められ,制限に対応する形で生活が混乱します。密閉・密集・密接の「3密」を避ける行動,他人との距離に配慮するソーシャルディスタンシングを意識する行動を日常的に求められ続けています。
 暮らしを支えてくれる職場や仕事を失うという危機的状況に置かれている人も数え切れないほどいるはずです。感染した人は奈落に突き落とされた状況に置かれるでしょうし,そうでない人にとっても我慢を強いられる巣籠り生活(ステイホーム)が続きます。ウイルスという日常生活で意識することのない相手,近現代日本では経験したことのない厳しい状況に置かれているので,ありふれた暮らしをする者には「何がどうなっているのかわからない」「これからどうなる」という不安しか頭をよぎりません。不安だけが日々増幅し,ストレスとなって体にため込まれているように感じています。誰もが当事者となり,ストレスを抱えながら「右往左往」の暮らしが続きます。

 私がここでこの問題に触れるのは,この巣籠り生活に「暴力」が忍び寄っていると考えているからです。私がこの問題に気付いたのは,3月末に国連が発表した特別報告の報道を目にしたあたりからです。新型コロナ対策として世界各国が外出制限を打ち出したわけですが,それに伴って家庭内暴力が増える恐れが非常に強いと警告する声明が発表され,警察や電話相談サービスへの通報内容にはその兆候が既に出ていると指摘するものでした。4月に入るとヨーロッパでの家庭内暴力の報道も見受けられ,WHOや国連事務総長家庭内暴力への早急な対策を求める声明を出しました。それとともに,国内の報道もこの問題を取り上げるようになってきました。国内のDV被害者支援団体から国に被害者保護の体制整備を求める要望も出されました。国家的な規模で課題として考えなければならない状況にあるといえます。そうしたこともあり,最近は「ストレスをためない」ことをアドバイスするメディアも増えています。

 制限された生活で日常生活のリズムが取り戻せない,家族間で一緒にいる時間が増えたことで身近な関係がストレスとなって蓄積される,日常の中に潜ませていた家族間感情が暴力となって表面化する,というような形で歪んでいく家族が増えていることを意味しています。外出制限・家計の制約が増幅している不安感によって家族の抱える課題をこじらせ,家庭内暴力の実行者をより大胆にさせかねない状況を作り出すことにつながっていきます。
 身近な暴力は弱者に向かいます。日常的に親の暴力に悩んでいる子供は,家にいることでさらにつらい状況に追い込まれるでしょう。家事や育児,高齢者の親族や病気の家族の世話を女性が主体的に担っている家族が多いという現実は,感染という未知の不安によって女性をさらに追い込むこともあるでしょう。現に今月6日には,感染拡大による影響で収入が減少したことによる口論がもとで,妻が夫に殴られて死亡するという事件が東京で起きています。こうした暴力性が表面化するのは,家族全体の中では微々たる数字かもしれませんが,大なり小なり家族のすき間にはこうした感情が潜んでいると考えなければならないということなのでしょう。

 私の不勉強もありますが,現在のような環境の中で暴力が増殖することは容易に想像できましたが,それが国際的に共通する課題であることまでは思い至りませんでした。私自身の中にも,家族というものを理想化してとらえるところがありました。しかし,家族はいるだけで家族なのではなく,家族であるための努力が必要であることを物語っているものだと考えるようになりました。その努力の中には「暴力」を排す姿勢も含まれるものだと思います。それが身近で起こる暴力を減らすことにもつながるのだと考えるのです。