娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

少年をどこまで守るつもりなのか

 森友問題で自殺した財務省職員と妻について週刊文春に掲載し続け「森友スクープ」として話題になっている大阪日日新聞の相澤冬樹氏が,先週『「罪を反省していない少年を社会に放り出すのか?」遺族が叫んだ事件と近畿財務局 赤木さんの事件の共通点』と題する少年事件を扱った記事を発しています。
 事件は2015年8月に尼崎市で,16歳の少年が無免許運転で自転車通行の80歳男性をはね,助けもせず逃げ去ったというもので,男性は死亡しました。少年はそれまでに2度,保護処分を受けていました。大阪家庭裁判所は刑事処分相当として少年を検察庁に送致し,地検が起訴して大阪地裁で裁判を受けたところ,地裁は「更生が期待でき,保護処分が相当」として家裁へ逆送致します。少年を送り返された大阪家裁は再び検察に送り,地検も再度少年を起訴しますが,大阪地裁はまたも家裁に戻す判断を示しました。家裁と地裁の間で2度もやり取りが行われるという異例の展開の後,3度目の家裁審判で保護処分が決定し,少年は少年院に送られます。
 そして今年に入り,被害者長男から相澤氏に連絡を入ります。被害者にとって受け入れ難い経緯で進められてきたことに納得できない長男が,事件当時「遺族にとって納得できず,少年のためにならない」とする記事を書いた相澤氏へ連絡を取ったとのことです。被害者がないがしろにされる話でしたので,私は素通りできませんでした。

 被害者長男によると,少年からの遺族への謝罪の手紙は途絶え,賠償交渉も頓挫したままの状況に置かれたようです。反省と謝罪と更生がないままに時間が経過しています。それにも関わらず少年からは少年院退院申請が出されます。その退院申請に伴って近畿地方更生保護委員会が開催されることから,それまでの経緯に納得できない遺族としてこの会議への出席を求め,被害者が受けている不条理について訴えたようです。刑事処分よりも軽い保護処分という決定が,逆に重い課題として被害者にのみ負わされた形で残されています。
 家裁から地検に送致されたということは,刑事裁判が妥当な内容,それだけ重い事件と判断されたからのはずです。少年院より少年刑務所での時間がふさわしいと考えての措置だったはずです。少年法という大人の世界とは別に刑事裁判を定めているのは少年の健全育成という理念を働かせるためとはいえ,2度も家裁に戻されるということは異例過ぎます。「地裁での結論に遺族が泣き出すと裁判長は「静かにしてください」と冷たく言い放った」との記載もありましたが,被害者に冷た過ぎます。娘の事件を通して被害者の置かれる不条理を感じている私は,加害者側に偏る事件の受け止めは事件の重さを被害者にだけ押し付けるということを何度かここで記しましたが,この事件はその典型例です。これが被害者保護に手薄な国の実情です。状況が厳しいとはいえ,「事件の真相を追及したい」という遺族の願いが叶うことを望みます。

 この国には「児童幻想」「少年幻想」とでもいうような信奉があると私は考えています。子供の健全育成を理想化し,子供の失敗は必ず立ち直らせることができると考える人たちのことです。この事件の一連の経緯は,そういう考え方の人が主導したよう思えてなりません。健全育成が子供全体に関わるものとはいえ,その中でつまずいた児童・少年の100%を立ち直らせられるのでしょうか。私は娘の事件を考えるうちに,それはあり得ないという考えを持つようになりました。子供でそれが通用するなら大人だって通用する話です。だが大人も100%善良ではないので,立ち直れない者による犯罪がなくなりません。高邁な理想は理想として,それに見合う能力を現代社会は身に付けているのでしょうか。健全育成からこぼれ落ちる子供が出る,罪に則した罰を与えるのはやむを得ないと考えますが,そのことを受け入れられない大人にこそ問題があると思うのです。娘の事件を矮小化し,事件の事実を確認しようとしない人たちにもそうした姿勢の者,それを正当化の理由にしている者がいると私は考えています。

 同時にこの国には,「オンナ・コドモ」という言葉もあります。取るに足らない,足手まといになる存在を指して言います。腕力や財力という目に見える力をもとにした歴史の中で生まれた言葉だと考えています。力を誇示したがる者たちが,コントロールできる存在として「オンナ・コドモ」を見てきた結果がこの言葉であり,今もその言葉を有効としている人たちがいることを意味するのだと考えます。男や大人がコントロールできると思っている社会の見直しが始まっていることを信じたいと私は考えています。