娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

事件を俯瞰的に眺めると

 政権が変わったとはいえ,「前政権の継承が私の使命」とする新首相のもとでは疑惑も同様のようです。モリ・カケ・桜と多くの疑問を残しながら主が交替したら,今度は日本学術会議の任命拒否という理解に苦しむ問題が起き,「総合的・俯瞰的」という文言も飛び出しましたが,納得できる言葉がないままにあります。何より,主に仕える公務員が「忖度」という書きなれない言葉を浮かび上がらせ,記録を改ざんするという公にあるまじき行為で国民の信頼を裏切ったことは大きな問題だと考えています(記録が未来世代のものであることが理解されていない)。
 官僚の世界では誤りがないことが前提のようで,官僚や公務員は間違いを起こさないことになっているらしい。一旦誤りを認めると,それまで積み上げたものが全否定され,行われた公務が崩壊すると考えられているようです。なので,論点をずらし,聞かれたことにはまともに答えないことも少なくなく・・・。報道が伝えるそんな政府の対応を見ながら,私たち親娘に対する神戸市の小賢しく不心得なやり取りを思い出していました。

 2017年5月24日神戸市立松原児童館で,娘は小2児童に背後から後頭部をバットで殴られます。事件のことは翌日,児童館から神戸市の担当に電話連絡されますが,その報告内容が矮小化されている可能性について前回触れました。被害者の受傷程度やバットで背後から殴った児童の行為は,軽易なものとして報告され,事故とするその報告を神戸市はそのまま受け入れ,事件発生12日後の6月5日に行われた市による現場確認では児童館に労いの言葉をかけます。施設設置者・事業実施者としての検証は十分ではなかったと受け止めていますが,児童館の情報しか持ち得なかったこの段階では,あり得る話なのかもしれません。ただし,聴力を奪われ,今も脳震盪後遺症の治療が続く被害者が受け入れられる報告内容でないことは,改めて念を押しておきます。

 むしろ問題はその後にあると考えています。事件1カ月後,郷里での療養を終えた被害者が,事件に関する動きが何もないことに疑問を感じ,被害届を出す動きに出ます。私ども親子は,児童館指定管理者に面会のうえ警察への調査協力をお願いし,その日の午後には神戸市の担当にもこの動きが伝えられています。被害者のこの行動は,児童館とは異なる情報の持ち主が登場したことになるはずです。しかしこの後,神戸市が被害者から直接聴取することはありませんでした。ここが全く理解できません。犯罪被害者支援の方向に動いている社会の中でのことなので,より理解できないのです。公だからこそ,まさに「総合的・俯瞰的」な対応を取るべきではなかったのでしょうか。2年後発生した兵庫区内の児童館で起きた女児に対する男児の暴力行為の時は,市としての主体的対応が取られているようですので,尚更です。
 事件が隠されたままにあることに疑問を持った被害者は,つてを頼りに新聞記者にたどり着き,事件の詳細を説明し,子供による大人への暴力行為を防ぐことを語ります。その記事は事件後7ヶ月経過した2017年12月19日に掲載されますが,取材で察知した神戸市の課長は同日に記者会見を行います。そこで発表された内容は,「発達障害」の児童による単独行動で,凶器として使われたバットはプラスチック製の柔らかいものだった,という話が主だったようです。私ども親子が指定管理者に面会した際に聞いていた内容と同じです。記者発表時における神戸市の情報は,6月5日の時点=被害者が登場する前の事件内容のままだったようです。

 2018年5月以降に行われた被害者との文書でのやり取り際しては,質問にはまともに答えない,指定管理者の報告がそうなっている的回答ばかりでした。自ら動いて確認する行動を放棄していますから,そんな回答しかできないともいえます。神戸市の行動は,指定管理者の陰に隠れる存在にしか見えません。

 なぜ,そうなったのか。私は次のように考えています。事件の報告を皮切りに,主導したのは児童館です。軽易な事故として報告し,市による事故現場の確認が行われたことで指定管理者と市課長は,事故の後片付けが終わったと考えました。ところが,被害者が被害届提出というそれまでのシナリオになかった行動に出ます。被害者はシナリオを主導した児童館の敵対者となりますが,この後の部分も児童館が主導する形だったと考えられます。当初からすべてを児童館に任せ,自ら動こうとしなかったツケを持つ神戸市は児童館の陰に入ります。私がこれまで「指定管理者制度の失敗例」と書いてきたのは,神戸市がそのようにしか見えないからです。公としての姿勢が感じられないから。