娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

暴力を許容する組織,謝罪しない人

 今月の報道で気になったものを二つ取り上げておきます。

 一つは防衛大学校のいじめ訴訟を報じたものです。2013年4月に防衛大に入学した男性が,入学以降に上級生から顔を殴られたり,アルコールを吹きかけられて体毛に火を付けられたりする暴行を受けて15年3月に退校し,翌年3月に上級生と国を相手に損害賠償を求めて提訴します。地裁は国相手の訴訟を分離し,上級生らには昨年2月に賠償の支払いを命じて判決が確定しました。国相手の訴訟では,地裁が昨年10月に男性の請求を棄却したことから男性が控訴し,その控訴審判決が今月行われました。高裁は地裁の判決を変更し,男性が受けた被害の一部は教官が事前に予見できたのに適切な指導を怠ったとして教官の安全配慮義務違反を認定し,国に賠償を命じました。防衛大でのいじめに関して国の安全配慮義務違反を認めた判決は初めて,ともありました。
 私が注目したのは,防衛大では規律順守を目的に学生が他の学生を指導する「学生間指導」があり,男性の在学期間中に「上級生から下級生への暴力や,不当な精神的苦痛を与える行為がしばしば行われていた」と述べられていることです。「学生間指導」というのは上級生から下級生ということでしょうし,隊内における階級になじませるという趣旨でしょうか。もともと戦いを目的とする軍隊は,組織としての統率力で戦いに臨むので厳格な上下関係を求めます。歴史の中ではたくさんの戦争が語られ,歴史を語る中では多くの戦(いくさ)が含まれます。私たちは歴史の中に勝利の物語を求めることが少なくありません。大河ドラマが戦争の時代を取り上るのもそこに理由があるはずです。しかし,戦の場は命のやり取りの現場であり,究極の暴力世界です。戦の時代は殺伐とした,多くの命が捨てられる時代でもあります。しかも,命を奪うのは敵との戦いだけではなく,戦いを遂行する軍隊内の暴力にもあります。旧日本軍が大陸での厳しい戦いを遂行する中で,上下関係による暴力行為が横行していた話は多くの兵の話として残されているところで,「階級一つ違えば虫けら同然」との言い方もあります。
 旧軍時代とは違う民主主義社会における祖国防衛を学ぶ場所で,旧軍時代のような暴力が行われていた,それを容認する空気が流れる社会となっていたことを重く考えなければなりません。戦争から75年経過した社会での話です。戦争に近かった時代ではありふれた話かもしれません。しかし,現代のスポーツの世界でも時々事件として報じられることで,そうした暴力的空気は依然として身近に存在します。暴力を容認する空気はできるだけ排除し,上下関係であっても人権が尊重される社会として納得できる関係が作られることをひたすら望みます。

 もう一つの気になる報道。2018年に福岡県の県立高校野球部に所属していた男子生徒がいじめをうかがわせるメモを残して自殺した問題で,男子生徒の遺族がいじめに関与していた同学年の野球部員6人(既に卒業)に謝罪と慰謝料などの損害賠償を求める訴訟を起こしたという記事です。このいじめに関しては,県教委の第三者委員会が部内のいじめが原因だと認定する報告書を提出しています。ところが,いじめに加わったとされた元部員と保護者は,遺族との2度の意見交換会でも「むしろ親しくしてやっていた」などと責任を全面否定し,一切謝罪に応じなかったとのことです。このため遺族は,男子生徒の名誉と尊厳を回復するため「被告ら全員から真摯な謝罪と、同じ過ちを繰り返さないという約束を受けることが必要不可欠」だとして提訴したとのことで,いじめを巡る訴訟でも謝罪を目的とした訴訟は珍しいとありました。遺族の気持ち,すごくわかります。
 なぜ謝罪ができないのでしょう。私には理解できません。非を認める,お詫びの言葉を述べる,頭を下げる・・・そうしたことができない,責任を認めない,誠意を見せない,相手の気持ちを考える気もない・・・。人をおとしめていることに気付かないし,気付こうともしない。そんな人種が増えているようにも思います。娘が対峙している人たちもそうした人たちです。気持ちが消耗されていく日々に追い込まれます。

 組織を優先させた旧軍時代のような暴力容認の空気も,個人が尊重される時代の中での礼を失した傲慢個性も,真っ平御免!