娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

ご飯論法という「ずるさ」

 この1年,私たちの住む社会というか世界は,新型コロナウイルスという禍に覆われ,今もその最中にあります。こうしたご時世の中では移動もままならないので,離れている娘と顔を合わせての会話は望むべくもなく,これまでを振り返ることが多くなります。昨年の今頃はマスク不足の時期で警戒生活に入っていましたが,さらに1年に遡ると,神戸市に対する質問状を提出するための準備を進めていた頃でした。そのことを思い出したのは,最近何度か「ご飯論法」という言葉を目にしたからです。私は神戸市の回答を「ご飯論法」としか思えず,この言葉を目にするたびに神戸市のことを思い出しているからです。
 改めて説明しておくと「ご飯論法」とは,質問に対して真正面から答えず,論点をずらして逃げる物言いを指します。「朝ご飯は食べたか」という質問に対し,質問側の意図をあえて曲解し,パンを食べたにもかかわらず「ご飯(白米)は食べていない」と答え,「ご飯」を故意に狭い意味に押し込めて論点をずらし,回答をはぐらかす手法です。2018年,法政大学の上西充子教授のTwitterへの投稿がネーミングのきっかけとされ,時の安倍晋三首相ら政府関係者が国会質疑での追及をかわすため,論点をずらしたりごまかそうとするのを揶揄したり皮肉ったりする表現としてメディアなどで頻繁に用いられるようになり, 2018年の新語・流行語大賞のトップ10にも選出された言葉です。明らかなウソは言わないけど本当のことも言わず,一見ちゃんと答えているかのように錯覚させてしまう。問いに対して向き合わないということは,事実に向き合わないことも意味します。論点のすり替えやはぐらかしで,過去の事実の書き換えることにもなりかねません。そこに答える側の,人としての誠意が表されることでもあります。

 神戸市の回答を振り返ると,以前の回答を100%のコピペで返したり(『回答,前回のコピーはないだろう!』),聞かれている部分の核心を答えることなく周辺の言い訳に終始したり(『少年法,本当に考えた?』『言い訳のあとは疑問符回答ですか』),プライバシーが聞かれているように装って回答を避けたり(『プライバシー? 聞いてないけど』)。
 神戸市は児童館という施設の設置者です。そこで起きた事件の被害者が被害届を出したということは,それまでの現場情報をもたらしていた指定管理者とは異なる情報を持っていることを意味します。本来であれば,施設設置者として自ら被害者を調査するという主体的行動が取られたはずですが,そうした行動がありませんでした。指定管理者の情報にのみ依拠し,その中で正当性を主張するしかないので,被害者から見ると言い訳にしか見えなくなります。施設設置者という責任ある立場にありながら,自らの不作為を隠そうとする姿勢で回答するので「ご飯論法」になってしまうのです。

 公の立場にある人たちから始まった「ご飯論法」という言葉は, ビジネスやサービスの場面でも使われているようです。もともとすり替えやはぐらかしなど,聞かれたことにまともに答えない行為ですので,「ずるい人」が先行する話です。その「ずるさ」を話し方に絞って抽出したので,使い勝手が良くなったということになるのでしょうか。「ご飯論法」が使われるということは,ずるさを見せる人が多く,イヤな社会になったということにもなります。それ以前に,ずるさを捨てろ,誠実に事実と向き合えという話です。
 事件から4年目になります。ずるい人たちと向き合っての時間は辛いものがあります。事件は時間と共に風化していきます。そのことは抗うことのできない事実です。でも,消滅はさせない。被害者が生きている限り,事件と誠実に向き合ってくれなかった人たちを忘れるわけにはいかないのです。