娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

記者会見で強調された言葉の軽さ

 神戸市が被害者に向き合ってこなかった疑問について,今回も記者会見で出された言葉から考えてみます。

 事件から7カ月近く経過した2017年12月19日の新聞報道でしたがその2日後,神戸市内の全児童館や関係者に対し,「放課後児童クラブ(学童保育)での職員体制について」と題する通知が出されます。情報公開で入手しました。「対応困難な事例」には相談に応じるともありますが,報告を求めない,確認すればそれでおしまいというだけの通知です。冒頭に,7カ月前の事件のことを「先日」と記載しているところはお笑いですが(この言い訳はぜひ聞いてみたい),それより気になったのは「突発的な事案にも対応できるよう」職員配置基準に基づく体制の確認を求めていることです。しれっと書いていますが,職員配置基準という制度は「バットで人を殴る」ような想定外な行為を含んで制定できるものでしょうか,どこまで触法(犯罪)行為を想定できるのでしょうか。私には矛盾することを有るかのごとく記述した,机上の言葉遊びにしか思えません。

 事件現場となった児童館に当てはめて考えてみます。事件1年後の18年6月の市会常任委員会で答弁に立った部長が,加害児童が1年生の時から指定管理者・保護者・学校による話合いを要する「課題のあるお子様」である旨の話をしています。記者会見での「発達障害」発言もそのことを印象付けたかったのでしょう。特別な対応を必要とする児童がいるので加配をしていた,市として必要な措置は取っていたことを強調する言葉としての「職員配置基準」であり,記者会見での「加配」のようにうかがわれます。
 私がこの事件の中で「加配」という言葉に最初に触れたのは,児童館が作成した資料の中でした。娘は事件当時,神戸市内の小学校で非常勤講師もしていました。この小学校の校長が事件翌日(17年5月25日)に児童館に電話を入れたのですが,この際に児童館長に対して「加配児のことでお気の毒です」との発言が記されているのです。後に校長と面会した際に確認したら,「大事な職員がケガをさせられた,どうしてくれる」的な抗議の趣旨で電話をしたので,労いの言葉を発した覚えはないとのことでした。しかもこの「加配」を含む語句は唐突な形で登場します。私には別の思惑,出来事を矮小化させたい児童館の願望が感じられるのです。制度には則っていたが「課題のある」児童が想定外の行動を取ったので防ぎようがなかった,という印象を強調したいのではないのかと。児童館として必要な対策をしていたことを示す言葉として「加配」の文字が挿入されたと考えています。児童館からの報告に基づく神戸市の現場確認(17年6月5日)に際して課長が「市としてもマンパワーの確保など、まだまだ協力していかないといけないことと認識」を示します。事件への対応策につながる市の意思が見えるのはこれぐらいで,これが「加配」につながっていると考えています。児童館の資料作成は7月なので,児童館の「加配」記載はこの発言を反映して後から用いられたものだと考えるのです。

 現場確認の後,市は「児童館が対応すれば良し」として事件を精査しないまま時間を過ごしていたと思います。そこへ突然事件報道(17年12月19日)の話になったので,市としての対応策の実績を示す必要が生じ,急遽「加配」を引きずり出してきたとしか見えないのです。冒頭に紹介した「先日」記載は,そうした経緯の反映かもしれません。結果的にはこの記者会見を報じた神戸新聞見出しの「職員加配するも防げず」につながり,それを念押しする形としての市内児童館全体への通知になるのだと考えています。
 しかし「加配」に関して見誤ってはいけないことは,人を増やせば良いという話ではなく,「加配したにも関わらず防げなかった」ことではないのでしょうか。検証すべきはそこにあるはずです。誰もしていません。また,新聞報道がなければ,冒頭に紹介した「職員体制の確認」を求める通知も出されなかったものと私は推測しています。やってるフリだけの通知にしか思えないのです。

 「加配」にしても,前回紹介した「発達障害」にしても(「被害者への神戸市の向き合い方」),用意した記者会見資料には見当たらない文言です。事件の印象を軽くしたいがために得得と強調して説明したのでしょう。しかしそれは,事件現場をないがしろにした内容で,そうした説明をする姿は滑稽にも思えます。被害者が見た事件現場の状況は,警察による触法調査以外では誰も聞こうとはしていません。市や児童館関係者は見ようとしないままで来ています。だから,事件の要因を加害児童の特異な性向に押し込めて印象を薄め,職員の数を解決策としているようにしか見えないのです。とりあえず「頭数」を揃えておけば「良い」としたいのでしょうが,それでは事件が起きるのです。事件の再発防止策を望む被害者の声はかき消されたままにあります。