娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。4の付く日に更新しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

暴力が生まれる場面

 このブログでは,身近なところで起きている暴力についても取り上げています。情報源は主に新聞ですが,その情報の中で学校でのいじめとスポーツ指導者問題が比較的多いように感じています。今回はスポーツ関連で,ごく普通の少年スポーツの現場での話です。
 記事は,西日本に住む40代母親への取材をもとにした内容です。母親の娘と息子がある競技の小学生の地域クラブに入っていて,参加させているチームでは父親が代わる代わる監督を務める体制を取っていたようです。入った時のチーム監督は選手の好き嫌いが激しい人で,それが苦痛と心配をもたらす原因となります。母親の娘が気に入らないのか試合や練習には入れてもらえず,一日中用具の管理をさせられることもあったようですし,「誰に断って入部してきたんだ?」との暴言もあったとあります。しかも,家に来て1時間以上娘を罵倒して帰ったこともあると言います。そうした繰り返しの中で,監督の暴力的な行動が子供たちにも伝染し,子供たちに暴力的な行動を目にするようになっていったようです。監督に気に入られて試合に出ている子供たちはやりたい放題で,息子が学校でその子供たちに蹴られ殴られるようになります。チーム側に実情を伝えても介入してくれず,結果,息子はチームを替わり,転校までしたというのです。

 暴力的な指導者を野放しにするとどうなるかの典型的な事例に思えます。上記の行動を見ても常識に欠けていますし,当番の母親たちにも偉そうに振る舞い,コーヒーの入れ方にもケチをつけるとのことですから,そもそも「人として」なっていません。私が注目したのは,大人の暴力が子供に伝染していることです。子供は暴力的な行動を自然と身に付けるわけではありません。それを行動として示す大人がいるから,暴力的になるのだと考えています。件のチームでは,監督が暴力的な見本となっています。身近な暴力はこんな形で起きてしまうことを確認した印象です。コロナ禍で,虐待やパワハラも増えているという政府統計も出ていますが,生活の変化の中で暴力が起きやすくなっている,人と人の間が暴力的になっていることの意味はとても重いものがあります。

 上記の話に戻ると,母親が地域の競技団体に相談したところ「子供を無視する監督の行為は、虐待。子供同士で起こった乱暴について指導しないことも問題」という見解を示されたそうです。スポーツを考え,子供と真剣に向き合っている人からすれば当然の見解ですが,残念ながらそうではない指導者が少なからず存在するのも事実なのでしょう。自らを省みることもなく暴力的な行動を繰り返していることは,時折報じられるスポーツ団体や学校スポーツ現場での事件に見られるとおりです。

 半世紀以上前の東京オリンピックの頃のスポーツでは,厳しい鍛錬を重視するスパルタ教育を好意的に受けとめる時代だったと思います。しかしそこでの成功体験が指導と暴力を区別できない人を生み続けたのではないかと考えるところがあります。さらに20年遡れば,精神論を振りかざした戦争という大義名分を掲げる暴力世界があったことも忘れてはならないと私は考えます。現在問題となるような虐待やパワハラもそうした時代の遺物的要素があるように思います。
 そうした暴力的指導の典型的な行動の一つが「怒鳴る」ことではないかと思っています。怒鳴る行動の背景にあるのは「上下の人間関係」だと考えています。虐待やパワハラにしても,暴力的な行動を取る側が,自分が上位にあることを勘違いしての行動としか思えません。厳しい指導で勝利に結び付けてくれると考えがちな人もいると思いますが,平成を通り越した令和の時代において,昭和の悪しき遺物が幅を利かせているように思えてなりません。全ての場面で怒鳴ってはいけないとは考えませんが,使われる場面は限定されるべきです。そして子供も含むこれからの人間関係を,「上下」から「左右」「水平」に変える考え方が重視されるべきだと考えます。

 スポーツ界においても,「怒鳴る」から「褒める」の方向性があるようなので,そのあたりの考え方が広まっていくことを期待するのですが,残念ながら冒頭の事例の監督などは,そうしたことを考えることのないのだろうと思います。自身が暴力的であることの自覚もないまま,今も変な「成功体験」を自慢しているんだろうな,悔しいけど。