娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。4の付く日に更新しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

形だけの謝罪で済ませてはならない

 いろいろとトラブルが続きながらも,やっと開幕にたどり着いた東京五輪。その目前でまたもスキャンダルが発覚して開催意義はさらに薄められたように感じています。開会式に起用されたミュージシャン・小山田圭吾氏の一件です。暴力を考えるうえで見逃せないものがあります。
 ミュージシャンは,小学校から高校にかけての年代に,障害者や在日外国人と思われる同級生へのいじめ・からかいの行動をしました。いじめ・虐待・差別の要素を持つ暴力です。その後ミュージシャンとして知られるようになってから,音楽雑誌にいじめのことを面白おかしく自慢げに告白していました。以前から音楽ファンの間では「常識」とされ,開会式に関係していることが報じられた直後から,ネット上で懸念の声が広がり出しました。
 雑誌が発刊された1990年代,彼らの音楽界隈には悪趣味で偽悪的言動・露悪的興味が優先される雰囲気があった的な言説もあり,雑誌の編集者も謝罪会見をしました。そうした時代風潮があったとしても,やったことが暴力であるならば許されることではありません。しかも,暴力行為から10年も過ぎてから雑誌に告白するということは,2次加害が行なわれことを意味します。
 私がこの問題に注目したのは,ミュージシャンの謝罪文を見てからです。謝罪文の中に「大変今更ではありますが、連絡を取れる手段を探し、受け入れてもらえるのであれば、直接謝罪をしたい」とあります。暴力には必ず被害者が存在しますが,被害者に対する謝罪をしていないのです。被害者に対する謝罪を伴わない謝罪は,ただの言葉遊び,世間に向けた謝罪のポーズでしかありません。最近は,心のこもっていない形だけの謝罪を見聞きすることが多い世の中ですが,これもその類です。
 繰り返しますが,加害者はこれまで謝罪行動が行っていません。本来はそこが最優先されるべきです。被害者への謝罪・自らへの反省・償いの行動が取られるべきなのに,それがないままに来ているのです。昔からよく言われてきた言葉ですが,「殴った方は忘れるけど,殴られた方は忘れられない」。被害者はずっと苦しめられているのでしょう。この暴力行為は過去のものではなく,現在も続いたままにあるのです。

 そして,この人物を選んだ五輪組織委の問題です。16日に謝罪文が公表され,翌日に「十分に謝罪をして反省をして倫理観をもって行動したいと言っている」「このタイミングなので貢献してもらいたい」と事務総長が見解を示し,続投の方向で考えたようですが,案の定批判はやまず,官房長官から最後通牒を受け,本人からの辞意を受けるという顛末だったようです。
 過去を問題視されている人物の起用への疑問もありますが,批判が起こってからも彼を続投させようとしたことを問題視しています。彼の行為が暴力であること,人を傷付けるものであったことをどのように認識していたのでしょうか。世間に謝罪文を公表したから反省しているとでもいうのであれば,言葉遊び・ポーズで済む問題と判断した,暴力を容認したことを意味します。スケジュール事情などで追い込まれた状況にあるにしても,人を選ぶ部分の基本にズレがあったことは確かです。オリンピック憲章に奉仕する者としての意識に関わる部分だと考えています。

 開会式前日には開会式ディレクターの解任もありました。20年以上前のコントに不適切な表現が含まれていたのが理由でした。こうしたことから,過ちを犯した人がいつまでも排除され続けなければならないのか,という「時効なき人格否定」につながる懸念も広がりました。ネットが普及した世の中なので,当事者以外の意見が膨れ上がることになり,監視行動に走る意見や過去を黙認しようとする意見が飛び交う状況がすぐできてしまいます。ただ,「過ちを克服した人」には許容される部分を持つ社会であることが望ましいことは確かです。

 先のミュージシャンの騒動で言えるのは,暴力の被害者との関係性の中で,加害者の被害者への向き合い方,謝罪・反省・償いの有無がその判断基準になるべきだと考えます。事件後4年経ち,今もって謝罪の言葉ももらえないままにいる娘を見ながら,切にそのことを思います。