娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

巨大な暴力,戦争

 北京五輪が終わったと思ったらウクライナ侵攻。平和から戦争へ。平和のもろさを思います。ひっ迫する不穏な状況の報道は年明けからあったようですし,1年以上前から計画されていた侵攻という報道もありましたが,五輪に浮かれていたので不意に感じました。これほどの赤裸々な侵略はヒトラーポーランドに侵攻した時(1939)以来とする報道もありました。ヒトラーに並ぶ悪行ですが戦争の経緯・行方を云々する力はないので,気になったことだけ記しておきます。
 ロシア首脳の発言です。ソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的惨事」と呼び,失われた冷戦期の地位を取り戻そうかとする帝国主義的思考に,私は20世紀の亡霊を感じます。そこに未来を感じている自国民はどれだけいるのでしょう。理性ではなく感情,それも独自の歴史観に動かされているように見える指導者の言動には,時計の針が逆回転するような狂気を覚えます。TVニュースが伝える無残で風景と独裁者の顔が重なって見えます。亡霊には早く消えてほしい。

 指導者に責めが帰されるべき戦争ですが,結果は戦場の兵士や市井の人びとに降りかかってきます。発達した武器による戦いで,兵士は一瞬で命を奪われたり人生を狂わされる場にさらされます。地上戦の広がりに巻き込まれた無辜の民は,殺戮や破壊,寒さや飢え,弾圧や難民の発生などの理不尽に襲われ,深刻で長期にわたる課題を背負わされることになります。その人数は数知れず。戦争は巨大の暴力であり,命の危険と不幸が繰り返される惨事でしかありません。悲惨で破滅的で数えきれない暴力が充満し,戦後も陰鬱で長く辛い生活を強いられることになります。戦争による暴力体験が,さらに新たな暴力を生む悲劇も繰り返されることにもなるはずです。巨大な暴力が今もそうした不幸を吐き出しています。
 人間の愚かさを考えさせるこうした戦争を,日本も80年ほど前に経験していたことを改めて思い起こすべきなのでしょう。五輪の後の戦争が意味することはそういうことなんだろうと考えますし,同じように平和のもろさを感じさせられている人は少なくないはずです。

 私はこのブログで,娘が小学生にいきなりバットで殴られた事件を考え,事件を起こした行動である暴力について考え続けてきました。日々の報道に見られる暴力事件を考察資料とし,特に生活に身近な場所で引き起こされる暴力を中心に考えてきたつもりです。暮らしに近い部分から可能な限り暴力を遠ざけることを考えておくべきではないか,と。

 新型コロナウイルスがはやり始めた2年前,家族が顔を突き合わせる時間が増えることで,生活の中で暴力に傾く場面が増えるとの報道がヨーロッパから発せられていました。意外には思っていましたが,徐々にそうした事件報道が増えていきました。家族の在り方も問われているようです。パンデミック暮らしの中でさまざまな変更を余儀なくされ,ストレスにさいなまれる暮らしが続くことになりました。そうしたことが反映され,虐待やDV,ハラスメントなども増えたようで,国から発表される数字も「前年と比べて増」,「過去最高」などの形容詞が付くようになりました。昨日発表された2021年の警察へのDV相談の件数も「最多8万件超」の見出しが付いていました。「死刑になりたい」と考えて見ず知らずの人を巻き添えにしようとする事件報道を目にする機会も増えているように思います。大きな時代のうねりに飲まれながら,暮らしの中の暴力的な空気が膨張しているように感じられてなりません。

 今の日本社会に潜む暴力と先の戦争の国の話を考え併せると,これから先の時間で,暴力的な行動が増えるのではないかという思いが募っています。暴力というものは人間の宿命なのかもしれませんが,だからこそ暴力的ではない行動について考えることが必要なのだろうと思うのです。