娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

「公」が歪んできているのではないか

 このブログには不相応な大きな話かもしれませんが,気になっている話です。
 今月18日,首相と官僚の関係を物語る森友学園を巡る公文書改ざん問題に関連し,自殺した職員の妻が国と改ざんを指示した佐川元国税庁長官を提訴した件です。提訴に合わせて自殺した職員の手記も公表され,公文書の改ざんを強制されたことが自殺の原因とし,「誰が何のためにやったのか。佐川氏には改ざんの経緯や真実を話してほしい」という妻のコメントも発表されました。これに対し,23日の参院予算委員会で安倍首相は,「麻生太郎副総理兼財務相の下、事実を徹底的に調査し、明らかにした。検察がしっかりと捜査した結果が既に出ている」と再調査を改めて拒否しました。

 ここまでを見た時,私は既視感を覚えました。もちろん,国と遺族の関係ではなく,神戸市と私たち親娘の関係を振り返っての話です。神戸市は,娘がバットで殴られた事件に関し,事件現場を自ら確認することもないまま,指定管理者の報告を事実のごとく述べてきています。もちろん検証に値する行動もうかがわれません。指定管理者の報告が事実と異なる矮小化したものであるにも関わらず,です。2度にわたる質問状への回答は,指定管理者の報告にすがるだけの誠意のない言葉の羅列でした。被害者の言葉に耳を傾ける姿勢などありません。そんな経緯の中で不信感と無力感が残されるだけでした。そんな私にとって,首相の言葉は神戸市の不誠実に重なって見えるのです。

 そう思いながらその後を見ていたら,国会での発言を受けた自殺職員の妻が,安倍首相は「国会発言で改ざんが始まる原因をつくりました」と指摘し,麻生氏には墓参りに来てほしいと伝えたのに「国会で私の言葉をねじ曲げました」と批判し,「(首相と財務相の)2人は調査される側で、再調査しないと発言する立場ではないと思います」と抗議をしています。至極真っ当な見解です。
 私は,自殺した財務省職員が被害者で財務省が加害者という図式で見ていますので,加害側が調査したから終わるというのは明らかな片手落ちでしかありません。加害側にとって都合の良い調査報告でしかないはずです。被害・加害双方の知るところを並べて調べなければ全体像が明らかにならないことは誰にでもわかる話です。それ以上に,職務に誠実に取り組む職員が誠実であるがゆえに死に追い詰められていくこと,そのように追い込んでいく組織の在り方,人を大事にできない構造そのものが問われなければならないはずです。
 首相は検察の捜査にも触れていますが,大阪地検特捜部が不起訴にしたのは,「有罪判決」を前提とした判断だからではないのでしょうか。納得はできないところではありますが。捜査で今回の手記がどのように扱われたのかはわかりませんが,今回の提訴はあくまで民事です。「罪」よりも「心」が裁かれる場であってほしいと考えます。自らの組織から恐怖や絶望に追い込まれた被害者のことを忘れないため,そのような横暴が少しでも減らせる社会になるためにも。

 後世の審判に委ねるためにも記録を残すことから役人が始まっていると聞いたことがあります。その基本的な部分を平然と踏み外している公人たちの話が問題の核にあります。加えて,最近は自らの優位を確保しようとして,人を大事にできない「公」が少なくないように感じています。「公」にある人たちの言動が「己」しか感じられません。上が上だから,ぶら下がっている奴らもそれで平然としている,としか思えないところもあります。なので,裁判の動きを静かに見守りたいと考えています。