娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

質問と回答がズレる時,ズレる場

 前回,私たちからの質問に対する神戸市の回答がかみ合わない話を載せました(’19/07/14『問いと答えがかみ合わない!』)。その思いを引きずっていたら,全国を賑わす騒動の中で,同じ様に感じられる報道に接しました。今,全国的に関心を呼んでいる吉本興行の騒動です。芸人(個人)とそれを束ねる会社(組織)による発言が様々に議論を呼んでいます。議論の核心には触れませんが,私が気になった「かみ合わない」につながる言葉の場面を考えてみます。

 もともとは,芸人による反社会的組織と関係する行動が報道され,それに伴う金銭授受否定で芸人への批判が高まっているところに,渦中の芸人が自主的に記者会見を開いて説明した話にパワハラが登場。これを機に批判の矢面が所属事務所に逆転し,急ぎ所属事務所社長が記者会見を開いて釈明したものの,疑惑は解消されるどころか増幅,という経緯のあたりでこれを書いています。

 私が気になった言葉は,ワイドショー番組の中で,社長会見に出席したリポーターが発した「ほとんどの記者は,質問に満足に答えてもらえていないと思っているはずです」との一言です。この会見を報じた新聞にも「会見は5時間を超え、質問と回答がかみ合わなかった」とありました。「明確な答えを出すこともなく、不信感を増幅」との記事もありました。確かに見ていると,ストレートに答えない,言い訳がましい,何を言いたいのかわからないグダグダ,ノラリクラリ・・・。
 彼が緊急的に記者会見をせざるを得ないきっかけとなった芸人側の記者会見は,それこそ必死に,その本気度が迫ってくる印象を強く持ちました。事実と向き合っているからこその言葉が連ねられていました。だからこそ余計に,社長のノラリクラリは企業イメージを損ね,傷口を広げてしまった印象があります。真剣さ,事実と向き合おうとする「差」が現れたと受け止めています。
 個人と組織が対立する形になった時,単純に考えると,組織側は多くの理由を並べるだけの余裕があるはずです。その理由に正当性があれば,質問に真摯に答えるはずなのです。それができない,質問に答えない,というのは理由に正当性がないから,と考えるのが自然です。社長が満足に答えなかった背景にはそれがあると考えます。最初の原因を作った芸人側の行為を許すわけではありませんが,事実に向き合っている姿勢は評価してあげなければならないと思っていますし,逆に会社側には真摯さを取り戻す行動を期待したいものです。

 その芸人側の記者会見の際,渦中の芸人たちに対して会社側が「今さらひっくり返せませんよ」という発言があったとの説明もありました。これも組織側の人たちにはあり得る言葉だと思っています。なぜひっくり返そうとしない=事実と向き合おうとしないのか,これも疑問を増幅させる言葉だと思っています。個人側をナメている姿勢が現れた言葉ともいえます。人間はもともと誤る生き物だと考えています。誤ったら,謝れば前向きになれる話が,誤りを認めないので,前に進めない話になります。彼らに妙なプライドがあり,それを象徴する上から目線の言葉が「今さらひっくり返せませんよ」だと考えています。

 「静観する」という言葉もありました。会社側はその言葉は否定していますが,そう感じさせる物言いはあったのだろうと推測しています。「静観」は,当事者が使う言葉ではないと考えます。当事者が「静に観守って」いてはいけないと考えます。真摯・前向きになれない人たちにとっては「何もしない」を意味します。これも組織の影に隠れている人たちが思いつきそうな言葉です。情報がさまざまな形で行き交う時代に,「静観は可能」と考えている神経そのものがアウトではないのでしょうか。

 上に記した言葉に反応したのは,私ども親子が対峙してきた神戸市役所に通じる姿勢を,記者会見の社長に感じたからです。神戸市は,事実に向き合うことなく無為に時間を過ごし,後になってその不作為(情報収集も含む)を糊塗するために数々の言い訳を並べ,質問とかみ合わない回答を平然と書き込んできました。質問と回答がかみ合わないのは,事実と向き合おうとしないからです。真摯に答えてくれない,「誠実」が言葉だけの相手に対して,疑問を感じて回答を求める者は不信感を募らせるしかなくなります。質問にまともに答えないというのは,不信感の増幅しか生まないという話です。