娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

問いと答えがかみ合わない!

神戸市の文章作法

 事件以来,数々の疑問を抱えたまま過ごす中で,昨年5月に神戸市長宛に質問状を出し,翌6月に回答をもらいました。しかし,読むほどに不快な思いが募る回答で,疑問は増幅するばかりでした(’18/10/18『神戸市 被害者の取扱い方』)。そこで今年3月,改めて質問状を提出し(’19/03/14『3度目の質問状を出す理由』),その月末に回答を受取りました。
 その回答をもとに,4月20日以降,具体的な問答内容をこのブログに掲載してきました。相変わらず読んで疲れる回答です。冷静に何度も文面と向き合う中で,何となくその理由がわかるようになってきました。一言で括ると,質問と回答がかみ合わないのです。そうしたかみ合わなさについて,整理しておきます。

 「事件としての認識」を尋ねた質問では,こちらの受け止め方が「勘違い」とでも言いたげな回答になっていますが(’19/05/06『少年法,本当に考えた?』),質問の核心は,被害届の提出を機に「見直しなどの対処は考えなかったのでしょうか」にあるのです。でも,その核心には全く触れないまま終わっています。答えやすいことは書くけれど,聞かれたくないことには答えない,という彼らの一貫した姿勢です。
 児童相談所に送られた加害児童への対応を聞いた質問には,「個人のプライバシーに関わること」なので答えられないという回答ですが,質問をよく読めば,児童のプライバシーではなく,市の対応を聞いていることがわかるはずです(’19/05/03『プライバシー?聞いてないけど』)。ここでも質問と回答は交わりません。「聞かれたことに答えろよ!」というイライラが募ります。
 質問作成に際しては,できるだけ質問の主旨が伝わるよう具体的説明を添えて記したつもりですが,質問に至る途中の,その説明部分に触れるようにし,質問の核心には触れないようにしていることもわかるかと思います。

 市役所内の情報共有(’19/05/09『言い訳の後は疑問符回答ですか』)や,前述「事件としての認識」(’19/05/06『少年法,本当に考えた?』)の質問は,前回提出の質問に回答してくれなかったので改めて質問したものでした。実にシンプルな,1行程度で済む回答で返されました。そんなに簡単に答えられるのだったら,前回だって書けたはずです。前回答えられなかった,答えを書かなかったことに本音があると考えています。前回の質問では, 27件の質問に対して16件しか回答してもらえませんでした(‘18/10/18『神戸市 被害者の取扱い方』)。それらと合わせ,書かなかった理由を知りたいところです。

 凶器となったバットのことは丁寧に回答していますが(’19/04/26『バットの硬さが影響する話なの?』),そんな周辺の些細な部分を力説していますが,もっと本質に関わる話こそが必要なのではないでしょうか。些細なことに終始して本質に触れないようにしていると考えています。
 「被害者の生活支援・補償」に関連する質問でも,市は「指定管理者に対して助言、指導する」立場なので「労災手続きを雇用主として適切に対応するよう指示」とはあっても,その結果は確認していません(’19/05/12『被害者の窮状にどう向き合った』)。指示が効果のあるものかどうかの実質は関係ないようです。彼らが仕事とどのように向き合っているか,仕事に対する取組み姿勢がうかがわれるところです。
 「事件直後の被害者への措置」を尋ねた質問では,前回の回答文をコピーしての回答となっています(’19/04/22『回答,前回のコピーはないだろう』)。前回の質問に関連するので同じタイトルとしましたが,質問の中身は前回と異なります。にも関わらずコピーを用いるのは,改めて書き込むことで,都合の悪い部分に触れることを避けたからと考えています。
 記者会見資料の表現を聞いた質問に関しては(’19/04/29『「特段の理由」があるから言葉が変わるんです』),二つの回答が1文字も違わぬ同じ文章,完コピーってもう論外,呆れかえるだけです。「雑」な仕事を象徴しています。「考えたくもない」ということでしょう。

 上に記載した例は,都合の悪い事情を抱えた人にとっては定番のやり方かもしれません。また,彼らにとって被害者は雑に扱う対象でしかないと受け取めるしかないのでしょう。公にある人たちがそのようなことをするとは誰も考えませんが,そういう行動が平然と行われています。誠意の無い回答が繰り返されただけです。誠意ある回答を書かない理由は何故なのか。指定管理者からの矮小化された報告を鵜呑みにしてその陰に隠れ,公としての主体的な動きをしなかったやましさがあるから。それを認めるわけにはいかないから,本当のことは書けない。彼らの回答はそうした立場で書かれているようにしか私には見えません。

  3度目の質問状提出には,私も初めて同行することができましたので(’19/03/15『質問状,出してきました』),質問の要点を口頭でも説明したつもりです。それでもかみ合わない回答になるのは,彼ら自身の中で踏み込んではいけない領域設定の存在を感じさせます。そのことについては,改めて考えてみたいと思います。