娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

家庭での暴力がもたらすもの

 前回,虐待の事件報道で考えたことを記しました。その後も虐待に関連する報道が続いていますので,気になったところを少し記しておきます。

 相次ぐ児童虐待事件の整理の中で,DV(ドメスティックバイオレンス)が密接に関連していることがわかってきているようです。昨年3月の東京都目黒区や今年1月の千葉県野田市での虐待事件に関する国や県の検証報告が,いずれも父親による母親へのDVの疑いと虐待を関連付けた対応が不十分だったと指摘しているとのことです。そうしたことから先週,厚生労働省が全国の児童相談所とセンターの連携状況について,来年1月にも実態調査に乗り出す方針を固めたとの報道がありました。この発表には統計数値も出されていて,全国の児相が2018年度に児童虐待の相談・通告を受けて対応したのは159,850件(速報値)で,統計開始から28年連続で増加。子供の前で配偶者らに暴力を振るう面前DVなどの心理的虐待は88,389件(55.3%)とこれも最多で,全体に占める割合は年々上昇しているとしています。
 同じ日に内閣府が,虐待がエスカレートする家庭ではDVも同時進行が多いことに関し,発生事例を5類型あげ,専門機関への相談を呼びかけているとの報道もありました。これによると,全国の配偶者暴力相談支援センターがDV相談を受けた件数も統計開始時から年々増え,18年度は114,481件で過去最多とのことです。加えて,警察庁による発表でも,18年の警察への虐待の相談件数も77,482件・摘発件数9,017件で,これも過去最多とのことでした。

 一番安心して過ごせる場所であるべきはずの家庭の中が暴力の巣窟に変わり果てている。そんな姿を持つ家庭が増えているというわけです。私がこの問題をここで取り上げるのは,虐待がさらなる暴力につながっていくと考えるからです。人間はもともと暴力的な素養を持って生まれていると考えています。動物的な生存競争の中を生き抜いてきて,戦闘的であることが求められた時代の方が歴史的には長かったのかもしれません。戦争という戦闘的暴力的時代を数え切れないほど繰り返してきていますし,その勝利を誇る風潮は今も強いと思います。しかし一方で,平和的で穏やかな生活を望むことが人間の本来のものとしてあるはずです。私たちが暮らすこの日本社会も,第二次世界大戦後の社会について,平和な社会を求める憲法のもとそれを実現できる方向を求めてきたはずです。
 その実現にあたって経済的に恵まれた社会を求め,経済競争の中で戦闘的な,時に個人を抑圧するような部分もあったわけですが,基本的には人間が素養として持っている暴力性を抑制するように図られてきたはずです。そして今,先進国の一つと数えられる社会を実現し,より個人が尊重される社会となったと私は考えていましたが,逆に個人が暴力で苦しめられる場面が増えている,ということがこれらの数字になっているということでしょうか。それも社会生活の基盤となる家庭の中での暴力が,絶対数としては小さくても増えている,ということなのだろうと受け止めています。

 私の娘は,小2男児にバットで殴られました。娘は事件以前に,その子の暴力的行動に危惧を覚えていましたし,その子は小1時代から「課題のある子供」として児童館や小学校関係者からマークされていたことを神戸市は市会で発言しています。にも関わらず事件は起きました。彼の暴力の素養は何ゆえに発露する方向にあったのか。その要因は彼の養育環境の中にあったのだろうと推測しています。
 そうした課題を抱えた児童の事件での行動について,児童館や小学校関係者,神戸市は少年法を盾に一切触れてきていません。しかし,原因も考えようとしないその姿勢では,再発防止にもつながらないはずです。同じような事件は2度と起こらないという確信があるのでしょうか。法の陰に隠れ,本来考えなければならないことにフタをしているようにしか私には見えません。それは暴力を許容する行為と考えます。そのことをこれからも問うためにも,日常生活の近くに潜む暴力について,被害者の父として,しかと考えていかなければならないのだろうと思っています。