娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。4の付く日に更新しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

公の場での神戸市の見解(2)

 前回(「公の場での神戸市の見解(1)」)は,2018年3月22日の神戸市会文教こども委員会での問答の概略を記しましたが,その答弁をどう考えるか。私はこの委員会(現在は「教育こども委員会」)の質疑応答を神戸市会のネット配信で見ました。答弁を行う部長をイライラしながら見ていましたが,ここで書こうとしているのはイライラの原因です。

 前段として,この委員会を事件の経過で考えると,次のような位置付けになります。事件発生が2017年5月24日。新聞報道があったのは7カ月も経った12月19日でしたが,報道内容は被害者への取材情報でした。この報道を察知した神戸市の児童館担当は報道当日に急遽記者会見を行ないますが,発表内容は100%指定管理者の情報です。市の立ち位置がよくわかると思います。そして被害者の情報と指定管理者の情報が,初めて同じ場で語られたのがこの委員会,ということになります。

 部長の答弁を聞いて最初に感じたのは,カムフラージュする言葉です。曰く「詳細については控えさせて」「個別の事については差し控えさせて」,と。事件の「詳細」に触れてほしくない,触れさせたくないということなのでしょう。小学2年生の男児がバットで職員を殴る(彼らは「叩く」と表現したがる)という行為は,インパクトの強い話ですから。
 「分からない」「知らない」とは答えるわけにもいかないので,具体性のない言葉が繰り返されますが,逆に自身の事件未消化であることを悟られたくない言動も見えます。「一般論でお答えさせていただきます」「一般論になりますけれども」と「一般論」に象徴されます。行政の事業現場での状況を議論する場ですから,一般論ではなく個々具体的な中身で答えなければならないはずですし,部長はそれを語る立場にある人です。しかしそれができない,具体的な情報を持ち合わせていない。そのことは本人が一番よくわかっていて,「一般論ばかりで申し訳ありません」との言葉もありました。「えー,えー」と資料を探したり,無言の時間があったり。振り向いて後ろの部下からメモのようなものを受け取るような動きもありました。この委員会の時点で事件の詳細が部長まで届いていなかったことがよくわかりました。持ち合わせた情報の内容も,更新されていない指定管理者情報です。

 指定管理者から市に上がってきた初期の報告は,それほど大きな事案ではないとしたものだったので課長以下で対応できる事案と判断され,上位には報告されなかったはずです。それは組織が持つ専決規程なり,職階に合わせた分掌などに照らし合わせればそうなるはずです。ただし指定管理者の報告が「事実であれば」の話で,部長にも詳細な報告が上がらないことがあり得る話です。
 しかし被害者は,自らの負傷と児童の普段からの行動を判断して被害届提出という,指定管理者とは異なる判断の行動を取りました。当然その情報は指定管理者の情報とは異なる内容と受け止めるのが自然です。ところがその情報の詳細は上には上がっていないのです。上げようがないのです。現場担当は十分な検証をしていませんし,被害者に会ってもいないのですから。
 ここが大きなターニングポイントでした。被害届の提出を事件情報として受け止める判断ができなかったのです。担当として直接調べた事件情報はなく,それまでの流れに身を委ねて指定管理者に引きずられ,その負い目からますます流されたのでしょう。公共を担う覚悟も一緒に。その流れの結果が報道発表内容であり,部長の答弁なのです。前々回で私は,神戸市の児童館担当が,同じこども家庭局に属す神戸市こども家庭センターの情報も持ち合わせないと書きました(「被害者への神戸市の向き合い方」)。同じ局に属する業務をまるで他人事のように記者会見資料に書き込む人たちです。ここで上位の人が絡んでいれば,当然同じ局内の情報に関しての判断があり,センターのことも思い浮かんだはずです。また,施設を設置し事業を行う自治体が指定管理者の情報にのみ依存するという愚は,指定管理者制度そのもののあり方うえでも課題のある対応です。こうしたことについて,上司の皆さんはどのように考えているのでしょう。「何ら問題ない」というのであれば,検証能力ゼロ,検証する意思を持たないという話にしかなりません。

 この委員会で明確になったことは,神戸市はこの時点で事件は「軽易な出来事」という認識でいた,指定管理者の報告を事実として被害者の提起を見ていないということでした。現場担当の判断だけで済む,誰の目からみても想定の範囲内と受け止められる軽易な事件で済む話とする認識です。しかし加害児童が問題行動を繰り返していたことや,被害者がPTSDの治療を受けるほど死を意識するような状態に追い込まれていたことに向き合おうとしない認識です。ぞんざいに過ぎる現場担当と,それを容認する事なかれな組織体質からの結果として娘の事件があることを,私は改めて確認させられたのでした。