娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。4の付く日に更新しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

神戸市の回答に見える担当のずるさ(2)

 前回は2018年5・6月に行った神戸市長宛の質問状に対する神戸市児童館担当(こども青少年課)の回答について,その回答文から見える市担当者の不誠実を記しました。このやり取りは,年を越えて翌2019年3月にも行いましたので(「質問状,出してきました」),今回はそのことについて記しておきます。

 質問の内容は,事件直後の被害者への措置,発達障害の発表,被害者への生活支援・補償,事件に対する認識と被害者への対応,指定管理者の事件対応,記者会見資料や加害児童の件,児童相談所の判断や再発防止策などで,1回目のやり取りを踏まえ,回答の曖昧さを避けることを意識してより具体的に設問したつもりです。10項目15問を用意しました。
 前回は問いに対する回答率が59%という,当事者とは思えない回答姿勢を見せましたが,今回は取り合えず全てに答えは用意されていました。しかし内容から見ると,残念ながら彼らの不誠実はさらにブラッシュアップされたようです。前回同様に誠意が感じられない回答文で,虚しさと悔しさを覚えるものでしかありませんでした。質問に対する回答がかみ合わない構造,問いの核心をはずして周辺部分を記すことに終始します。彼ら得意の「論点ずらし」,はやりの「ご飯論法」です。「プライバシー」の文字を持ち出して回答を避けたものもありますが,プライバシーの意味をよく理解しているのだろうかと思えるような,あえて問いを避けるための持ち出し方にも思われました。前回の無回答を再度問うたものに対して簡略に回答したものもありましたが,そんなに簡単に答えられるのであればなぜ前回回答しなかったの?という疑問も生まれます。腑に落ちる回答は皆無なので,疑問ばかりが膨む結果でした。人と向き合うことの意味,人への想像力を持ち合わせない人たちであることは確認できたと思っています。

 行政は住民の生活全般に関わるので広範な情報が集積されているので,少年法発達障害に関する情報を持っている部署もあるわけですが,そうした他の担当との情報共有の痕跡もうかがわれません。そのことから「狭い視野の中で仕事をしている奴ら」と私はこれまで何度か記してきました。しかし改めて回答を振り返ると,問いに向き合う回答をすることが自分たちの不作為を浮かびあがらせることになるので敢えて触れなかったのかもしれない,と思えることがあります。自分たちの不作為につながる文言は極力避けたい,と。要するに保身行動です。公以前です。
 彼らの誠意なき回答を一例紹介しておきます。冒頭1問目の回答で,事件直後の被害者への措置を問うものでした。指定管理者の報告を紹介する内容でしたが,407文字で構成された回答文のほぼすべて,403文字分が前年1回目回答の「コピペ」でした。私たち親子はからかわれたようです。公の立場にある者たちの,個人に対する処遇としては失格でしょう。狼の威を借る狐以下の人格をそこに見ます(狐に対して失礼)。質問状提出に際し,対面した課長から「誠意を持って回答」的な言葉があったように記憶していますが,誠意という言葉の意味が私とはだいぶ違うようです。

 前回同様,ここでも回答には「指定管理者から」「指定管理者に対して」などと指定管理者が21回登場します。指定管理者制度である以上そうした答えになるのはやむを得ないにしても,施設設置者としての検証を感じられる文言が見られません。根拠となる制度上の取り決めに触れることも見られません。指定管理者との協定作成においては事故を想定するとは思いますが,暴力など犯罪行為を想定した規約を設けるものでしょうか。協定を飛び越えた行為が起こったことを尋ねているわけですが,そのことに対する危機感は見られません。指定管理者の言いなりとなって主体的調査は行なわなかった,その不作為はより鮮明になったと思っています。要するに,神戸市は施設設置者としての主体的行動は取られていない,と。私がこれまで「指定管理者制度の失敗例」と記してきた理由もそこにあります。よくそれで指定管理者の選択ができますね,と考えてしまうわけです。

 事件以降,加害児童の保護者による被害者への謝罪行動はありませんでした。指定管理者は,事件そのものを矮小化するとともに,療養のために休業している従業員である被害者の生活支援を一切しませんでした。命の危機を感じるほどの痛みを負った被害者が,なぜこうした二次被害に追い込まれなければならないのかと考える時,事件現場となった児童館の施設設置者である神戸市がその使命を果たさないのか,公の立場にある人たちに使命を果たそうとする姿勢がないからではないのか。その姿勢が保護者や指定管理者の行動に影響を与えていると考えざるを得ないのです。私がしつこく神戸市の不作為を綴る理由はそこにあります。