娘をバットで殴られて

2017年5月24日,神戸市松原児童館で小2男児が職員を背後からバットで殴る事件が起きました。その職員は私の娘です。事件についてのあれこれ,世に伝えられる暴力などについて考えたあれこれを記しています。私の名前は,久保田昌加(仮名)。

改めて労災への疑問を整理します

 昨秋から娘の診療に関連する労災の判断に対する疑問を綴ってきましたが,経過もあるので一度整理しておきたいと思います。基本的に私は,これまで綴じ込んでおいた娘の事件資料を見返しながら文章を綴っています。労災に関しては労基署が作成した資料から作成された「労働者災害保険審査官決定書」(以下では「決定書」と)をもとにしています。

 娘は事件後さまざまな診療科を訪ねて検査や入院も含む診療治療を受けていますが,労災では事件当日と翌日分しか承認しませんでした。承認された最初の病院では「脳振盪症候群」と診断していますが,頭部CTによる画像検査はしたものの,脳損傷を診断するうえで必要なより詳しい検査は行っていません。入院の話を持ち出しますが,その必要性に関する詳しい説明は記載されていません。記憶消失も伴う脳振盪患者の場合,本人だけでなく周囲にいた人への丁寧な問診も重要とされますが,付き添った人間が事件の状況を伝えた記述もありません。ただ,費用は認めてもらえました(『事件直後の診察に対する疑問』)。事件後2日目の病院での難聴の診療も認められましたが,この病院が出した入院の指示をもとに郷里の病院で入院としたところから以降は,すべてが認められていません。バットで頭が殴られた一番顕著な被害である脳振盪後遺症は今も治療が続いていますが,そこはバッサリ切り捨てられました(『脳損傷がなかなか認められないのは』)。こうした労災の決定には全く納得ができないままにあります。

 納得できないのは,「決定書」を子細に見ると不可解なことが少なくないことにもあります。娘の受傷に関連し「軽微な頭部打撲」とする記載が目につきます。バットで殴られて意識消失に落とされ,その後は記憶障害や難聴,吐き気,めまいといった症状に襲われている被害者がなぜに「軽微な頭部打撲」という記載をされるのでしょうか。事件を調査した警察が「殺傷能力がある」としたバットについて,労災に関係した医員が「金属バットなどではなく」「やわらかい子供用のものであった」と記していることが象徴的です。労基の関係者が,意図的な先入観のもとで作業を進めていて,そのことを意味するのが,「軽微な頭部打撲」という言葉が繰り返しだと考えるのです(『なぜ「軽微な頭部打撲」なのか』)。

 「決定書」には,当然ですが判断の根拠となる各医師の診断資料も載せられています。「医証」という項目になっています。医療の証拠とでも解すればよいのでしょうか。ある程度のフォーマットの中に整理されているのですが,ところどころに「※」印を付した記載があります。ここだけに注目して読んでみると,娘の人格的は特徴,簡単に言えば悪口的中傷的な記載といえばよいのでしょうか。要するに「請求者(娘)の人格に問題がある」としたいようです。医師による医療の記載の中にそうした悪口が挿入されていることに悪意を感じるのです。医師の主張というよりは,医師の資料から悪意につながる語句を抽出しているという話です。医師が科学的に記述すべき場所に,報告作成担当が意図的に事実をゆがめたと私は受け止めるのです。(『診療記録から抽出する意図』

 「決定書」では,「災害発生状況」つまり事件時の状況を記しているのですが,職場関係者から聴取しているのに,被害者である娘からの聴取を行いませんでした。ここではそこに深入りしませんが,その職場関係者は同僚と上司の2人です。この2人の申述にはかみ合わないところがあります。殴られて倒れた娘について同僚は,通行人の女性が「道に倒れていたから連れてきました」と言われたとしています。ところが上司は通行人が「路上にしゃがみこんでいたと話していた」とし,「倒れていたわけでは」なく「うずくまっていた」と話しています(『やはり「うずくまる」は作為だった』)。それぞれの聞き取りは別々の労働事務官が行っていますが,資料集約に際して検証・確認というのは行わないのでしょうか。人の話を聴くことは大事ですが,鵜呑みでは困ります。
 この「上司」の証言は,それ以上の意味を持ちます。事件を軽易に見せるための作為が見事に表されているのです。私は当初から「事件の事実は矮小化されている」と考えていましたし,このブログもそのために書いています。矮小化のシナリオを書いたのは「児童館長」ともしてきましたが,そのことを客観的に示す資料は入手できませんでした。ここにありました。証言の作為がその一端を表しています。神戸西労基署も,神戸市役所も彼の書いたシナリオにのせられた,というかのったのです。そのことを指摘したとして,公にある人たちですから失敗を認めることはないでしょう。ただその結果として,被害者が苦しむ現在があります。